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英勝寺

 鎌倉の扇ガ谷にある英勝寺は、東光山を山号とする浄土宗の寺院で、現在、鎌倉で唯一の尼寺です。鎌倉には、かつて尼五山の第一位に数えられた太平寺や、縁切寺として知られた東慶寺などの尼寺がありました。しかし、太平寺は戦国時代、小田原北条氏と里見氏の争いに巻き込まれ、弘治二年(1556)に廃寺となりました。東慶寺も明治以降、尼寺としての役目を終え、男性の僧侶が住職を務めるようになりました。こうした歴史を経て、英勝寺は鎌倉の尼寺の伝統を今に伝えています。

画像の紹介:左又は下:英勝寺山門 右又は上:英勝寺本堂

 英勝寺を参詣した際にいただいた「拝観のしおり」をもとに、この地の歴史をたどってみます。周辺は古くから亀ヶ谷や扇ガ谷と呼ばれ、平安時代には源義朝の屋敷があり、鎌倉時代には寿福寺が営まれました。鎌倉幕府が滅びて足利氏の支配が及ぶようになると、この地には上杉氏が屋敷を構え、その家臣である太田氏も上杉氏の屋敷の一角に住むようになりました。ところが、扇谷上杉氏と山内上杉氏の対立のなかで、文明十八年(1486)に太田道灌が暗殺され、太田氏は衰退していきました。英勝寺の歴史には、この太田氏との縁が深く関わっています。
 英勝寺を寛永十三年(1636)に創建したのは、太田道灌の子孫である太田康資の娘、お勝の方です。お勝の方は徳川家康の側室となり、後に水戸藩の初代藩主となる徳川頼房の養育にあたりました。家康の没後には出家して英勝院と名乗り、後に英勝寺を創建しました。開山となったのは、頼房の娘である小良姫で、玉峯清因と称しました。その後も代々、水戸徳川家の姫君が住持を務めたことから、英勝寺は「水戸御殿」や「水戸様の尼寺」と呼ばれるようになりました。

画像の紹介:左または下:英勝寺山門「詰組」 右又は上 :山門の「丸に三つ葉葵」 

水戸徳川家の手厚い保護を受けた境内には、江戸時代初期の建築がまとまって残されています。山門、鐘楼、祠堂、唐門とも呼ばれる祠堂門は、いずれも重要文化財です。建物を見て歩くと、それぞれの造りに共通する特徴と、細部の違いに気づきます。建築様式は禅宗様を基本としていますが、山門、鐘楼、仏殿の屋根には反りがなく、まっすぐに葺き下ろされています。禅宗様の細部と直線的な屋根の形をあわせて見ることが、境内の建物を味わう手がかりになります。
 山門では、屋根を支える組物である斗栱が、柱の間にも密に並ぶ「詰組」になっています。また、仏殿には、上部が曲線を描く花頭窓が見られます。これらは禅宗様の特徴を示す部分で、建物全体の姿を眺めた後、屋根の下や窓の形に目を向けると、その造りをより身近に感じられます。境内の随所にある屋根瓦などには、徳川家や水戸徳川家の紋である「丸に三つ葉葵」が見られ、寺と徳川家との結びつきを伝えています。「拝観のしおり」にも、大きな三つ葉葵紋と、その下に小さな桔梗紋が描かれています。

画像の説明:左又は下:英勝寺鐘楼 右又は上:「拝観のしおり」
左上に「丸に三つ葉葵」(徳川家や水戸徳川家の紋)、その少し下に
「桔梗の紋」(太田氏の家紋)

 現在の山門に至るまでには、長い復興の歩みがありました。山門は大正十二年(1923)の関東大震災で倒壊し、その後、山王ヶ谷の資産家に買い取られました。平成十三年(2001)に英勝寺が買い戻して復興工事を進め、平成二十三年(2011)五月には落慶供養が行われました。今日目にする山門は、江戸時代からの歴史とともに、震災後の復興の歴史も伝えています。

 仏殿の内部は通常公開されていませんが、山門の落慶供養の際に寺から発行された「東光山英勝寺」に掲載された内海恒雄氏による寺宝解説には、「仏殿内部は天井の中央には竜、周囲には楽を奏でる音声菩薩や迦陵頻伽が描かれ、水戸徳川家の三つ葉葵や太田家の桔梗の紋が描かれている」と記されています。外から見える建築の細部だけでなく、仏殿の内側にも、こうした絵画の世界が広がっていることがわかります。
 境内を奥へ進むと、裏庭には、小規模ながらよく手入れされた竹林があります。歴史ある建物を見て歩いた後に竹林を眺めると、境内の静かな趣をゆっくりと感じられます。英勝寺は、お勝の方や水戸徳川家にまつわる歴史、江戸初期の建築、そして竹林の景色を通して、鎌倉のさまざまな時代に触れられる寺院です。

(注)
音声菩薩(おんじょうぼさつ)は、楽器を奏でる菩薩のことです。東大寺の八角燈籠に登場します。迦陵頻伽(かりょうびんが)は、仏教における想像上の生物で、上半身が人、下半身が鳥の姿をしています。その声は非常に美しく、仏の声を形容するのに用いられます。音声菩薩や迦陵頻伽は、敦煌の壁画にも数多く登場します。
➡本ブログ内の関連項目 中尊寺 http://bishamonten.info/posts/post88.html (迦陵頻伽)
            敦煌  http://bishamonten.info/custom9.html
                http://bishamonten.info/posts/post54.html

2026年11月01日

豪徳寺

 豪徳寺は、世田谷区にある曹洞宗の寺院です。前身は「弘徳院」と呼ばれていましたが、寛永10年(1633)、世田谷15か村(後に20か村)が彦根藩井伊家の江戸屋敷賄料として与えられると、弘徳院は井伊家の菩提寺として取り立てられました。そして万治2年(1659)、彦根藩三代藩主・井伊直孝の死後、その法名「久昌院殿豪徳天英居士」にちなみ「豪徳寺」と改称されました。(ここでは二代直勝、三代直孝とカウントしました)

画像の説明 左又は下:「大谿山豪徳寺」寺号標 
      右又は上:本堂のイラスト(現在修復中でネットをかぶっているため、チャットGPTにより作成)

 豪徳寺は現在、招き猫の寺として広く知られています。寺には次のような話が伝えられています。
 井伊直孝が鷹狩りの帰途、弘徳院の前を通りかかると、門前にいた猫が手招きをするようなしぐさをしました。不思議に思った直孝が寺に入ると、間もなく激しい雷雨となりました。猫のおかげで難を逃れた直孝は和尚の説法にも感銘を受け、以後この寺を手厚く庇護するようになったといいます。
 しかし、この話がいつ成立したのかはよく分かっていません。
 日本招猫倶楽部監修『招き猫百科』によれば、現在確認できる文献・資料からは、招き猫は江戸後期、18世紀後半頃に江戸・浅草周辺で生まれたものと考えられています。そうであれば、17世紀前半の直孝の時代に、すでに今日のような「招き猫」の風習が存在したと考えるのは難しそうです。
 また、江戸後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』や『江戸名所図会』にも、豪徳寺の項には招き猫に関する記載は見当たりません。したがって、この逸話は史実そのものというより、井伊家の菩提寺として豪徳寺が発展する契機を作った直孝の功績を、猫の姿を借りて分かりやすく語った後世の寺伝と考えておくのがよさそうです。
 現在、豪徳寺で授与される招福猫児(まねきねこ)は、小判を抱えていません。右手を挙げただけのすっきりした姿で、私はこの豪徳寺の猫がなかなか可愛らしいと思います。

画像の説明:左又は下:仏殿の「三世仏」の額
      右又は上:豪徳寺の招き猫

 豪徳寺の仏殿には「弎世佛」の扁額が掲げられています。「弎」は「三」の古字で、現在の字体なら「三世仏」です。
 仏殿の造営に力を尽くしたのが直孝の娘「掃雲院」です。掃雲院は当時日本に伝来したばかりの黄檗宗に深く帰依していました。
  承応元年(1654) 隠元隆琦が中国から来日
  万治2年(1659) 井伊直孝死去
  寛文元年(1661) 隠元が宇治に萬福寺を開創
  延宝9年(1681) この頃までに、掃雲院による造営が完了
と年代を並べてみると、豪徳寺仏殿の建立は、隠元によって明代中国の新しい仏教文化が日本に紹介され、黄檗宗が急速に広がっていた時期とちょうど重なります。豪徳寺の仏殿や仏像にも黄檗様式の影響が認められています。
 豪徳寺の三世仏は、阿弥陀如来・釈迦如来・弥勒菩薩です。なぜ三尊がこの組み合わせなのか、私にはよく分かりません。ちなみに黄檗宗大本山・萬福寺の大雄宝殿は、中央に釈迦牟尼仏、その左右に迦葉尊者と阿難尊者を置き、さらに十八羅漢を配する、明代中国寺院の形式を継承しています。
 (豪徳寺の三世仏に関して、下図に説明文をコメントさせて戴きました。)
 豪徳寺の阿弥陀―釈迦―弥勒という三尊構成そのものを黄檗宗の教義に由来すると考えるのは難しく、黄檗宗の影響と「弎世佛」の意味は分けて考えた方がよさそうです。
 平成18年(2006)には三重塔が新たに建立されました。
 その軒下の蟇股には、4辺×3支/1辺=十二支の彫刻が一般に配置されていますが、その中に一匹、十二支にはいない猫がいます。
 写真を見ると、猫の左右には亥と午と思われる動物が配置されています。十二支の順番は「亥―子―丑」と続きますから、どうやらここでは子(鼠)の代わりに猫を置いて、「亥―猫―丑」とされたようです。十二支に入れなかった猫と鼠をめぐる昔話を思わせる、招き猫の寺・豪徳寺らしい遊び心です。平成18年建立の新しい三重塔だからこそできた、ちょっと楽しい仕掛けなのかもしれません。

画像の説明:左又は下  萬福寺三尊構成
      右又は上 三重塔の蟇股 右から 丑←猫←亥

 

 

<付録>「三世仏」の説明です(私が下書きをしましたが、パワーポイントで表を完成することなく、
     完成はチャットGPTにお願いしました。2分くらいでした)

2026年10月01日

龍穏寺 関三刹より

 龍穏寺は曹洞宗の名刹であり、「関三刹(かんさんせつ(注))」の一寺として知られています。関三刹とは、慶長17年(1612)に江戸幕府によって定められた曹洞宗寺院の統制制度で、總寧寺(下総国)、龍穏寺(武蔵国)、大中寺(下野国)の三か寺が定められました。
 江戸幕府は各宗派に本末制度と呼ばれる寺院の階層組織を整備し、本山から末寺までの組織を通じて幕府の法令や方針を全国の寺院へ徹底させました。関三刹は、その中で曹洞宗を統制する重要な役割を担っていました。
 曹洞宗は鎌倉時代に道元禅師が越前国に永平寺を開いたことに始まり、永平寺は修行の中心となりました。その後、瑩山紹瑾禅師(曹洞宗第四祖とされます)が総持寺を拠点として教団を大きく発展させます。特に東日本では在地領主や地方武士の支持を受けて勢力を広げ、京都・鎌倉五山を中心に公家や上級武士の信仰を集めた臨済宗とは異なる発展を遂げました。
 徳川家康が関東へ入府した頃には、曹洞宗は関東で大きな勢力となっており、その寺院組織を統制するために関三刹が設けられたと考えられています。
 この制度の特徴は、永平寺・総持寺を宗派の本山として宗教的権威を担わせる一方、寺院統制の実務は関三刹が担当した点にあります。すなわち、本山が宗教的権威を保持し、関三刹が幕府の行政機能を担うという役割分担がなされていました。また、当時の永平寺・総持寺はいずれも江戸から遠く離れていたため、幕府が関東に寺院統制の拠点を置いたことにも大きな意味があったと考えられます。
 その後、幕府の支配が全国へ及ぶにつれて、関三刹の統制権限も拡大しました。龍穏寺は幕府直轄地である武蔵国をはじめ二十三か国の曹洞宗寺院を管轄し、大きな影響力を持つようになります。また、永平寺の貫首には関三刹の住職が就任することが慣例となり、龍穏寺からも十三人もの貫首が永平寺へ昇山しています。

画像の説明:龍穏寺経蔵 左または上:正面の唐破風の向拝 
            右または下:道元ゆかりの彫刻(道元禅師日宋求法の彫刻)

 このように隆盛を誇った龍穏寺ですが、宝暦2年(1752)正月の大火によって伽藍の大半を焼失しました。現在残る山門は天保12年(1841)の再建で、町指定文化財となっています。また、県指定文化財の経蔵は木造三間四面、宝形造、銅瓦葺きの建物で、白漆喰塗りの外壁と、腰より上部に施された道元禅師ゆかりの彫刻(道元禅師日宋求法の彫刻)が見どころとなっています。

画像の説明 左または下:龍穏寺本堂 右または上:龍穏寺山門

 なお、龍穏寺の創建そのものは古くまで遡りますが、曹洞宗寺院としての基礎は永享2年(1430)に上杉持朝によって再建されたことに始まります。さらに文明4年(1472)には太田道真・道灌父子によって中興されました。現在も境内には両名の墓碑が残されており、龍穏寺の長い歴史を今に伝えています。

画像の説明:太田道真・道灌父子の墓碑

注)「関三刹」の読み方は、「かんさんせつ」と「かんさんさつ」の両方が見られます。本稿では、龍穏寺の現地案内板の表記に従い「かんさんせつ」とさせて戴きました

 

写真の説明:曹洞宗瑩山派の本山總持寺大祖堂
 總持寺は、明治三十一年の大火を契機に、総本山を能登国現在の輪島市近郊より、神奈川県鶴見へ移し、現在の總持寺を整備しました。
➡総持寺にジャンプ

2026年09月01日

補陀落山西方寺

 西方寺は、横浜市港北区新羽町にある真言宗の寺院です。正式には補陀洛山安養院西方寺と号します。「補陀洛山(ふだらくさん)」は、サンスクリット語 Potalaka の音写で、観音菩薩が住む山を意味します。古くから南海上にある観音浄土と考えられてきました。
 寺伝によれば、西方寺は建久年間(1190年代)、醍醐寺三宝院座主を務めた勝賢僧正によって鎌倉に創建されたと伝えられています。その後、明応4年(1495)頃に現在の新羽へ移転しました。勝賢は新義真言宗が成立する以前の人物であることから、西方寺は関東地方に江戸時代以降急速に普及した真言宗智山派・豊山派(新義真言宗)ではなく、古義真言宗の系統に属する寺院と考えられます。

画像の説明:西方寺本堂

 西方寺がこの地へ移転する以前、当地には観音院があり、十一面観音菩薩が祀られていたと伝えられています。現在の山号「補陀洛山」は、その古い観音信仰の名残ではないかと考えています。
 本尊は阿弥陀如来坐像で、「黒本尊」として知られています。通常拝観できませんが、神奈川県指定重要文化財に指定されている平安時代後期の仏像です。当初は「漆黒(しっこく)」の仏像かと思っていましたが、寺伝では、金色に輝く阿弥陀如来像に漁師が経文を書きながら墨を塗ったことから黒本尊となったと伝えられています。阿弥陀如来の脇侍は観音菩薩であり、本尊の阿弥陀如来と、古くからこの地に伝わる観音信仰が自然に調和した寺院であることがうかがえます。
 山門を入ると、正面に東向きの本堂が建ち、右手の小高い場所には鐘楼があります。寺の説明板によれば、本堂は享保6年(1721)、鐘楼は宝永5年(1708)、山門は弘化年間(1844年頃)の建立です。いずれも横浜市指定有形文化財に指定されています。

画像の説明:西方寺本堂と山門

 本堂でまず目を引くのは、見事な茅葺屋根です。厚く葺かれた萱は、美しい曲線を描くように丁寧に刈り込まれ、量感のある大屋根に優雅な表情を与えています。茅葺屋根は雨仕舞いという実用性が第一ですが、それだけではなく、茅葺職人の高い技術と美意識によって、一つの建築美として完成されていることを実感しました。
本堂内部は通常非公開ですが、『近世社寺建築調査報告書』によれば、内陣は間口三間、奥行二間で、床を一段高く設けています。さらに禅宗様の出組斗栱(詰組)が用いられ、天井は折上格天井となっており、寺院として非常に本格的な内陣構成を備えているようです。
 鐘楼は200円の志納で一回撞くことができます。静かな境内に響く鐘の音は、落ち着いた寺院の雰囲気によく調和していました。

画像の説明;西方寺鐘楼と山門(山門脇にトクサを見ることができる)
)
 また、山門脇にはトクサ(砥草)が植えられていました。トクサは茎にケイ酸を多く含むため表面がざらついており、昔は木工品や漆器の仕上げ研磨に利用されたことから「砥草」の名があります。何気ない植栽ですが、こうした植物にも日本の伝統技術との関わりが残されていることを知り、興味深く感じました。
 西方寺は「花の寺」として知られていますが、境内には中世から受け継がれてきた観音信仰、古義真言宗の歴史、江戸時代の建築、そして茅葺職人の優れた技術など、多くの見どころがあります。派手さはありませんが、一つ一つを丁寧に見ていくことで、この寺院が長い年月をかけて育まれてきたことを実感できる空間となっています。

2026年08月01日

浄真寺九品仏創建時のこと

 浄真寺では、2014年から「九品仏大修繕事業」が進められています。当初は、九品阿弥陀如来九体と本尊釈迦如来像の計十体を、一年に一体ずつ修理し、2024年に完成する計画とお聞きしていました。しかし、その後のコロナ禍や三仏堂の耐震対策などにより工期が延長され、現在(2026年6月)では、境内の案内板によると2034年の完了を目指して事業が進められています。
 現在は中品堂、下品堂の修理が完了し、上品堂の中生仏が修理中です。残るのは上品堂の二体の阿弥陀如来像と、本尊の釈迦如来像となっています。

画像の説明:左または下:浄真寺大修繕事業の大勧進 右または上:珂碩上人を祀る開山堂

 修理事業だけを見ても気の遠くなるような大事業ですが、三百年以上前にこれらの仏像と堂宇を完成させた先人たちの執念、財力、そして大きなロマンを感じます。
 浄真寺については、これまで私のブログでも二度取り上げましたが、今回は創建当時の歴史や、そこに関わった人々の姿について改めてみてみたいと思います。

(珂碩上人の発願)
 浄真寺の開山である珂碩上人(1618~1694)は、江戸深川の霊巖寺で修学中、二十六歳のときに九品仏造立を発願したと伝えられています。その際、毎日三文ずつを蓄え、将来の造仏費用に充てたといいます。当時、うどん一杯が十六文という時代ですので、実際の資金調達というよりも、日々の誓願を忘れないための象徴的な行為であったのかもしれません。
 九品仏建立の思想的背景には、『観無量寿経』に説かれる九品往生の教えがあると思われます。もっとも、珂碩上人が若い頃に『梵網経』に感銘を受けて発願したとの伝承もあり、発願の契機と九品仏建立の教義的根拠とは分けて考える必要があるようです。
 その後、珂碩上人の名声は高まり、四十六歳のときに最初の阿弥陀如来像を造立しました。そして四十九歳のとき、九体の阿弥陀如来像を完成させます。このうち三体は珂碩上人自身が、残る六体は弟子の珂憶上人(1635~1708)が担当しました。しかし、この時点では木地のままで、漆箔や金箔はまだ施されていませんでした。

画像の説明:左または下;開創なった中品堂 右または上;上品堂中生仏選座中(修理中)

(村上藩と珂碩上人)
 九体の阿弥陀如来像を完成させた翌年、珂碩上人は越後村上の泰叟寺住職となり、約十一年間を同地で過ごします。『行業記』によれば、これは村上藩主の招聘によるものでした。当時の村上藩主は榊原政倫で、榊原家は代々霊巖寺の檀家として深い関係を持っていました。
 霊巖寺は関東十八檀林の一つであり、江戸の浄土宗教学を支える有力寺院でした。浄土宗の寺格は、総本山知恩院を頂点に、大本山増上寺があり、その下に関東十八檀林などの学問寺院が位置づけられています。霊巖寺はその代表的な檀林の一つであり、珂碩上人もここで学びました。
榊原家と霊巖寺の結びつきを考えると、珂碩上人が村上へ招かれたのも自然な流れであったと思われます。

(奥沢への移転と浄真寺の創建)
 当時の霊巖寺は深川にありましたが、水害や火災の危険が常にありました。そのため珂碩上人は、九体の阿弥陀如来像を末永く安置できる場所を求め、奥沢の地に目を向けたものと思われます。ちょうどその頃、奥沢新田村の開発が完了し、本村から独立して新たな村となりました。新田村には檀那寺が必要であり、九品仏の安置場所を求める珂碩上人側との話は、うまくまとまったのではないでしょうか。延宝六年(1678)、四代将軍徳川家綱から奥沢城跡の地を賜り、この地に浄真寺が創建されました。珂碩上人が奥沢へ移り住んだのは六十二歳のときでした。
 九体の阿弥陀如来像は奥沢に移された後、時期は明確ではありませんが漆箔と金箔が施されました。『九品仏記』には、「弥、布漆ヲ加、金色ヲ以、飾ル」(原文漢文、『文化財総合調査報告』より)と記されており、今日私たちが目にする荘厳な定朝形式の阿弥陀如来像姿へと整えられていったことがわかります。

画像の説明:左または下;増上寺(浄土宗大本山)) 右または上;知恩院(浄土宗総本山)

(珂憶上人の功績)
 その後、珂碩上人は元禄七年(1694)に遷化しました。師の遺志を継いだのが弟子の珂憶上人です。珂憶上人は当時、河内安福寺の住職でしたが、尾張藩二代藩主徳川光友をはじめ多くの有力者の帰依を受けていました。その人脈を活かし、三仏堂建立のための資金調達や材木の確保、大工の手配などに奔走しました。
 珂憶上人自身今風に言うとマネージメント能力に優れており、漆箔・金箔の施工や、上品堂・中品堂・下品堂の三仏堂建立も主導しました。珂碩上人が発願者であり学者・構想者であったとすれば、珂憶上人はその事業を完成へ導いた実現者であったといえるでしょう。
 今日私たちが目にする浄真寺の九品仏と三仏堂は、珂碩上人と珂憶上人、二代の僧の大願と執念によって完成したものと私は考察しています。

過去のブログ:九品仏浄真寺 
       浄真寺 九品仏


2026年07月01日

大宮 氷川神社

 

さいたま市大宮区にある大宮氷川神社を参拝してきました。街中を突き切る約二キロに及ぶ参道は想像以上に壮大で、現在の氷川神社が「武蔵一宮」として広く認識されている理由を、空間そのものから実感することができました。


氷川神社の御祭神は、須佐之男命(すさのおのみこと)、稲田姫命(いなだひめのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)であり、いずれも出雲系神話と深い関係を持つ神々です。関東には氷川神社系統の神社が広く分布していますが、その中心に位置するのが大宮の氷川神社であり、古くから武蔵国を代表する神社として崇敬を集めてきました。


氷川神社は『延喜式神名帳』において「名神大社」とされています。『延喜式』とは、平安時代中期に編纂された律令国家の施行細則であり、その中の「神名帳」は、国家が祭祀の対象とした神社一覧です。また「名神大社」とは、その中でも特に霊験著しいとされた最上位級の神社を指します。武蔵国では、氷川神社と金鑽神社が名神大社に列せられています。

画像の説明:氷川神社碑

画像の説明:画像左:氷川神社全図(現地のパネルより) 画像右:氷川神社一の鳥居

もっとも、ここで注意しなければならないのは、『延喜式』における社格と、「一宮」という概念は必ずしも同じではないという点です。延喜式の社格は、古代国家による祭祀上の序列であるのに対し、「一宮」は中世以降、地域社会や武士層の認識の中で形成された呼称であり、両者を単純に同一視することはできません。

 

画像の説明:画像左;氷川神社
      画像右:戦艦武蔵の碑

江戸時代になると、大宮は中山道第四番目の宿場町として発展し、氷川神社は江戸近郊の大社としてさらに重要性を増しました。明治維新後には、明治天皇が東京遷都直後に氷川神社へ行幸し、「武蔵国の鎮守」と位置付けています。このことは、近代国家形成の中で、氷川神社が武蔵国を代表する神社として社会的に認識されていたことを示すものであり、現在「武蔵一宮」として定着している背景もここにあると思われます。

画像の説明:画像左:小野神社 画像右:一ノ宮交差点表記(両画像とも多摩市)

一方で、中世史料を見ると、多摩市の小野神社を武蔵国一宮とみなす考察(*1)が存在します。鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』治承五年(1181)四月二十日条には、「武蔵国多西郡内吉富并一宮・蓮光寺」(*2)という記述があります。この箇所については、「一宮」が小野神社を指すとする解釈が有力ですが、文脈上は、小山田三郎重成が自己の所領を主張するため、所領注文の中に「一宮」「蓮光寺」を書き加えたものと考えられます。つまり、「武蔵国一宮」を高らかに宣言した文章ではなく、地理的な指示語として淡々と用いられている表現です。


とはいうものの、少なくともこの時代、多磨郡多摩川西部において「一宮」という呼称が通用していたことは確かであり、現在も小野神社近傍には「一ノ宮」という地名が残っています。当地は、古代には国府を擁した府中に近く、平安時代末期以降、鎌倉時代には鎌倉街道を通じて、鎌倉と結ばれていました。周辺には小野牧が存在し、馬産と在地武士団との結びつきも強かったと考えられます。横山党をはじめとする武蔵武士にとって、馬は軍事力そのものであり、小野神社は、そうした地域社会の実務的・祭祀的中心として機能していた可能性があります。


このように考えると、「武蔵国一宮」という言葉は、古代国家による固定的なランキングではなく、時代ごとの政治・交通・地域社会の変化の中で、その意味合いを変化させてきたものと理解するのが自然ではないでしょうか。現在の氷川神社の壮大な姿を前にすると、後世において武蔵国を代表する神社となった理由は十分理解できます。しかし同時に、中世の多摩地域において、小野神社が「一宮」と呼ばれていた背景にもまた、地域史としての重みを感じます。

(*1)多摩市デジタルアーカイブでは、多数掲載されています。
(*2)現代語訳吾妻鑑 (五味文彦・本郷和人編 吉川弘文館)を参考にさせて戴きました。
「武蔵国多西郡」は、多磨郡を多摩川によりほぼ東西に分け、多摩郡西部のこと。
「吉富」東京都日野市・多摩市・府中市にわたる一帯
「一宮」は、現、多摩市一ノ宮、「蓮光寺」は、現、多摩市連光寺

2026年06月01日

大崎八幡宮

 大崎八幡宮は、仙台藩祖である伊達政宗によって勧進された神社であり、慶長12年(1607)に完成しました。政宗はこの造営にあたり、京都をはじめとする中央から多くの工匠、大工、絵師を招聘しており、その結果、地方にありながらも極めて高度で洗練された建築様式を実現しています。
 この社殿の最大の特徴は、「石の間造り」と呼ばれる形式にあります。これは本殿・弊殿・拝殿を一直線に連結した構造で、上から見ると、神体を祀る本殿と参拝のための拝殿が、それらをつなぐ弊殿によって一体化された形となっています。本殿は正面五間・側面三間の入母屋造、拝殿は正面七間(背面五間)・側面三間の入母屋造であり、その間に位置する石の間は一間四方の両下造(切妻の両端が本殿拝殿に含まれる建築)となっています。いずれの建物も屋根は杮葺きで統一され、落ち着いた中にも格式の高さを感じさせます。特に石の間は本殿や拝殿より一段低く設けられ、石敷きとされており、桃山時代以前の古式をよく残しています。

画像の説明:大崎八幡宮拝殿 後ろに見えるのは拝殿
(拝観当日当日は正面にテントが張ってあり、正面から撮影できませんでした。この写真をベースに正面から見たイラストを文末に掲載しました。)


 この石の間造りは、後に「権現造り」とも呼ばれるようになりますが、この名称が一般化するのは寛永13年(1636)に日光東照宮が同様の構造を採用して以降のことです。もともとこの形式は、本殿と拝殿を別棟として建て、それらを相の間で接続する構成であり、その源流は宇佐八幡宮や石清水八幡宮に見られる八幡造、さらには仏教建築では、東大寺三月堂の双堂形式などに求めることができます。
 構造上の見どころとしては、高さの異なる建物同士をどのように接続するかという点がありますが、大崎八幡宮では折上げ格天井を用い、石の間と拝殿を斜めに連結する比較的簡単な構成を採用しています。これに対し、同時代の北野天満宮では八ツ棟造と呼ばれる複雑な屋根構成によって三棟を結合しており、両者の比較は当時の建築技術の多様性をよく示しています。また、細部に目を向けると、斗供、木鼻、蟇股などの彫刻には極彩色が施され、さらに軒下の金具に至るまで丁寧な装飾がなされており、桃山文化の華やかさを色濃く伝えています。

画像の説明:軒下蟇股、斗供

画像の説明:軒下木鼻、軒下の金具


 桃山時代以降の神社建築の特徴として注目されるのは、外観が仏教寺院に近づいていく点です。本来、日本の神社建築は仏教伝来以前から存在し、大社造(出雲大社)、神明造(伊勢神宮)、春日造(春日大社)などの古式が伝えられてきました。しかし、これらは定期的な造替を繰り返す中で、その都度、当時の建築技術や様式の影響を受けてきました。

写真の説明:左右からとった写真を元に、チャットGPTで正面からのイラストを作成しました現物と細部で差異がありますが、ご了承ください。

 

 

 

 

 

 その背景には、寺院と神社の双方を手がける宮大工の存在と、神仏習合という日本独自の宗教観があります。神と仏の区別が緩やかになるにつれて、建築様式においても両者の融合が進み、江戸時代には神社でありながら仏堂に近い外観を持つ建物が多く見られるようになりました。大崎八幡宮もその一例であり、屋根上に鰹木(かつおぎ)や千木(ちぎ)を備えない一方で、斗供や木鼻、蟇股といった仏教建築的な要素が豊富に取り入れられています。このように大崎八幡宮は、伊達政宗の意図のもとに中央文化を積極的に取り入れた結果、桃山時代から江戸初期にかけての建築様式の転換点を示す貴重な遺構であり、日本建築史を考える上でも重要な位置を占める神社であると言えるでしょう。


2026年05月01日

平等院鳳凰堂と宇治神社

 平等院は、京阪宇治駅またはJR宇治駅から徒歩約10分の場所に位置します。特に有名なのが「鳳凰堂」と、仏師定朝ゆかりの阿弥陀如来坐像です。平等院はもともと「宇治殿」と呼ばれる貴族の別荘でしたが、永承7年(1052)、藤原頼通によって寺院として整備されました。当時広く信じられていた末法思想を背景に、極楽浄土の世界をこの世に再現することを目的として、阿弥陀庭園を伴う「阿弥陀堂」が建立されました。なお、「鳳凰堂」という名称は当時の正式名称ではなく、後世になってから付けられた呼び名です。
 鳳凰堂は十円硬貨にも刻まれている、日本を代表する建造物であり、国宝に指定されています。その優美な姿とバランスの良さは言うまでもありません。中央の中堂は二階建てのように見えますが、実際には下層の屋根は裳階(もこし)(*1)です。

画像の説明:平等院鳳凰堂全景と中堂

 屋根の上には、建物の名の由来となった鳳凰が二体据えられています。現在屋根に置かれているものは模刻であり、オリジナルの鳳凰像は平等院鳳翔館に展示され、間近で見ることができます。鳳凰堂中堂の内部には、阿弥陀如来坐像が安置されています。内部拝観には別途拝観料が必要で時間制限もありますが、この国宝仏を間近で拝観することができます。これほど重要な文化財を、直接目の前で拝観できることには感謝するほかありません。この阿弥陀如来坐像は国宝であり、仏師定朝の確証ある現存唯一の作品とされています(*2)。


 定朝は、藤原道長の晩年から頼通の時代にかけて活躍した仏師です。また、仏像制作技法である**寄木造(よせぎづくり)**を完成させた仏師として、仏教美術史に名を残しています。この阿弥陀如来坐像は、主に、頭部・胴体前部・胴体後部・両膝・腕・手などが別々の材で作られ、組み合わせられています。
寄木造の成立について、かつては「一木造に必要な巨木が不足したため」という材料不足説で説明されることがありました。しかし現在では、木材乾燥による割れ防止、内刳りによる重量軽減、制作工程の分業化、といった技術的合理性によって説明されることが多くなっています。


画像の説明:平等院鳳凰堂の鳳凰(模刻)

 

 

 

 

 

 ここで少し私見を述べさせていただきます。
定朝の父である康尚の代に、仏師集団は奈良の巨大寺院の工房から独立したと考えられています。これは、仏像制作のスポンサーが寺院から、独自の仏師集団を持たない貴族へと移行したことと関係しているのではないでしょうか。平安貴族による造仏は、多くの場合、供養日、法会、開眼供養といった特定の日程に合わせて完成させる必要がありました。つまり、依頼者は完成を気長に待つわけではなく、納期の調整が極めて重要だったと考えられます。また仏師側から見ても、早く制作し、早く引き渡すことは経済合理性の面からも重要です。したがって寄木造は、納期短縮を可能にする制作方式としても説明されるべきではないかと考えています。
 例えて言えば、洋服のフルオーダーとイージーオーダーの関係に近いかもしれません。各パーツを別々に制作しながら、完成時には一体感を保つことができる。これこそが、定朝率いる仏師集団の大きな強みだったのではないでしょうか。

坐像の説明:平等院の側を流れる宇治川と宇治神社本殿(重要文化財)

(*1)裳階(もこし)
裳階は、仏堂、塔、天守等で、本来の屋根の下にもう一重屋根をかけるかたちで付けられます。風雨から構造物を保護するため、或いは、装飾のために付けられました。建築上、構造材にはなっていないことに注意してください。法隆寺の五重塔、金堂の裳階は有名です。
以前の紹介記事です。http://bishamonten.info/posts/post122.html

(*2)定朝作の確証について
平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像には銘文が残っているわけではありませんが、「平等院阿弥陀堂の本尊を定朝が造った」とする一次史料を含む有力資料が複数存在し、作者が定朝であることはほぼ確定しています。

(*3)寄木造
寄木造は複数の木材を組み合わせて作る仏像制作技法です。それ以前の主流は、一木より彫り出す一木造でした。

2026年04月01日

黄檗宗萬福寺と曹洞宗總持寺

 江戸初期の1661年(寛文元年)、明末の高僧・隠元隆琦が来日し、日本に黄檗宗を伝えました。その中心寺院が宇治に建立された萬福寺です。萬福寺の創建は、徳川家綱をはじめとする幕府の手厚い保護と、大坂の有力商人らの莫大な寄進によって支えられました。寺領四百石、境内九万坪、諸役免除という待遇は、単なる宗教的評価だけでは説明できません。
 幕府が萬福寺を保護した理由は、宗教的必要性というよりも、政治・外交・統治上の判断にありました。江戸初期の幕府は、戦国期の一向一揆の記憶や、本山—末寺を貫く強固な宗派ネットワーク、さらにキリスト教への警戒などから、既存宗教に対して一定の距離を保っていました。一方で、中国文明の権威は取り込みたいという思惑もありました。しかし満州族の清王朝との政治的接触は避けたいという、きわめて微妙な立場にありました。黄檗宗は、その要請に応える存在でした。すなわち、「漢(明)文明」の宗教的・文化的要素だけを切り出して受容できる装置として機能したのです。

画像の説明:左又は下:萬福寺三門 右又は上:萬福寺法堂(国宝)

 隠元は、すでに滅亡した明を背景とする亡命僧であり、日本国内に血縁・地縁もなく、門徒組織も武装経験も持っていませんでした。そのため黄檗宗は幕府に完全依存する形で成立し、他宗との軋轢を避けながら、非大衆路線・非拡大路線を維持しました。その結果、萬福寺は宗派拡張の拠点というより、明代中国の宗教・建築・生活文化をほぼ丸ごと移植した文化空間として今日まで存続しています。
 伽藍は強い中軸線を持ち、天王殿から大雄宝殿、法堂へと一直線に並ぶ左右対称の構造をとっています。屋根や斗栱、扉意匠に至るまで明代様式が徹底され、日本の他の禅寺とは異なる独特の秩序を今に伝えています。門前に観光土産店が並ぶわけでもなく、観光客もそれほど多くありません。萬福寺は静寂のうちに文化資産として持続する寺院です。

画像の説明:萬福寺大雄寶殿(国宝)(*1)

 日本に伝わった禅宗は、臨済宗・曹洞宗・黄檗宗の三派に分かれますが、それぞれ異なる方法で社会に根を下ろしました。臨済宗は京都・鎌倉の五山を中心に、貴族や高級武士層と結びついて発展しました。五山文学に代表される漢詩文化は非常に洗練され、中国僧と区別がつかないほどであったともいわれています。(*2)
 曹洞宗はこれとは対照的に、東日本を中心に村落へ浸透し、檀家制度を基盤とする地道な活動によって広がりました。越前の永平寺と能登の総持寺を両輪として発展しましたが、明治三十一年の大火を契機に総本山の一つを神奈川県鶴見へ移し、現在の總持寺を整備しました。都市近郊へ拠点を置くことで、教育機関の設置や地域行事の開催など、近代的な宗門運営を展開しています。豆まきの様な行事を通じて地域社会との結びつきを深めつつも、観光寺院化することなく落ち着いた空間を保っています。

画像の説明:左又は下:總持寺大祖堂 右又は上:總持寺三門

 萬福寺が「外から移植された文明空間」であるのに対し、總持寺は「社会の内部に根を広げた生活宗教の拠点」といえます。同じ禅宗でありながら、その成立背景や支援構造、社会との関わり方は大きく異なります。禅三派の歩みは、日本社会が宗教をどのように受容し、再構成してきたかを示す一つの縮図であるといえます。

(*1)萬福寺大雄寶殿には日本で唯最大のチーク材を使用しています。(現地で戴いたパンフレットより)

(*2)臨済宗関連は、何度か扱っています。
     円覚寺 http://bishamonten.info/posts/post82.html
     浄明寺 http://bishamonten.info/posts/post90.html

2026年03月01日

白水阿弥陀堂

 福島県いわき市に所在する願成寺白水阿弥陀堂は、1160年(永暦元)3月、徳姫(藤原清衡の娘)が、夫である岩城太夫則道公の冥福を祈るために創建した阿弥陀堂です。

 建物は方三間・単層・宝形造で、現在は国宝に指定されています。屋根は現在杮葺(こけらぶき)(*)ですが、これはたび重なる修理の結果であり、明治37年(1904)の解体修理の際に、茅葺(かやぶき)から杮葺へと屋根材が変更されたことが知られています。

白水阿弥陀堂 左遠景 右近景

 内部は折り上げ小組格天井で、天井には宝相華文様が描かれており、その一部が現在も残っています。規模は異なりますが、宝相華文様の描かれた格天井という点では、平等院鳳凰堂とよく似た雰囲気を感じさせます。

 本尊の阿弥陀如来三尊像は寄木造・定朝様式で、国の重要文化財に指定されています。これに加え、持国天立像・多聞天立像も重要文化財です。

 阿弥陀堂は南面して建てられており、堂の手前には中島が配され、その中島を挟んで朱塗りの勾欄橋が架かっています。阿弥陀堂と庭園が一体となったこの浄土庭園は、国指定史跡となっています。

白水阿弥陀堂 左 浄土庭園 右 軒下の造形 斗栱・垂木等

 ところで、京都の浄土庭園である浄瑠璃寺や平等院では、阿弥陀堂が東面しています。これらは、太陽の運行を厳密に取り込み、彼岸・此岸の思想を視覚的に表現した浄土庭園の一つの完成形と考えられます。

 これに対し、白水阿弥陀堂の場合は、白水川の蛇行を利用した地形的制約によって当初から南面になった可能性があります。また、同じ奥州藤原氏の文化圏に属する毛越寺(藤原基衡建立)が南面であることを考えると、平泉文化圏では、浄土思想そのものは十分に理解した上で、必ずしも東面に固執せず、地形や施主の意図に応じて多様に翻案されたと考える方が自然でしょう。

 一方、無量光院跡(藤原秀衡建立)は東面しており、これは平等院鳳凰堂を再現するという明確な「選択」によるものと理解できます。実際に、『吾妻鏡』文治5年(1189)9月17日条には、無量光院が平等院を模して建立された旨が記されています。この条は、奥州合戦直後、藤原氏滅亡後に寺院側が安堵を求めて申し上げた内容を記録したものであり、中尊寺や毛越寺の状況も併せて記されていることから、当時の平泉の実態を比較的正確に伝える史料として一般に評価されています。

 以上を踏まえると、無量光院の東面は秀衡の明確な意図に基づくものである一方、毛越寺や白水阿弥陀堂の南面は、同一の浄土観に立ちながら導かれたもう一つの解として位置づけることができるでしょう。

以下は、浄土庭園の平面図です。阿弥陀堂と浄土庭園の関係がよくわかります。
(画像はいずれも四角補正を行っています)

白水阿弥陀堂(現地の案内板より)

中央の鶴翼を持った伽藍が毛越寺(円隆寺)右端が観自在王院↑浄瑠璃寺(いずれも現地の案内板より)

 

画像 上 平等院鳳凰堂(入場券よりコピーさせていただきました
画像右 稱名寺(現地案内板より)
(原典は、重文『稱名寺絵図並結界記』)

浄土庭園関連のリンク情報は、下記となります。
(下記よりリンクへジャンプされた方は、ブラウザの戻るボタンでこのページへ戻ってください。)
浄瑠璃寺 http://blog.bishamonten.info/posts/post25.html
毛越寺  http://bishamonten.info/posts/post84.html
稱名寺  http://bishamonten.info/posts/post65.html
永福寺  http://bishamonten.info/posts/post83.html
 
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(*)「杮葺(こけらぶき)」とは、ヒノキやマキなどの薄板を用いて屋根を葺く工法です。「杮(こけら)」と果物の「柿(かき)」とは字が異なりますので、ご注意ください。

2026年02月01日

瑞巌寺 特に五大堂

 瑞巌寺は、宮城県松島に位置する臨済宗の名刹として知られていますが、その宗教的性格は単一ではなく、本堂と五大堂という二つの異なる宗教的顔を併せ持つ点に大きな特色があります。本堂は禅宗(臨済宗)に属する一方、五大堂は密教(真言宗)的性格を色濃く残しており、この併存は伊達政宗の宗教観をよく示しているように思われます。
 瑞巌寺は1609年(慶長14年)に伊達政宗によって創建されました。政宗の宗教理解は、特定の一宗一派に帰依するものではなく、きわめて複合的かつ実利的でした。政宗は、宗教を個人の信仰にとどめず、統治や軍事と結びついた精神的基盤として理解していたと考えられます。すなわち、禅によって精神を鍛え、真言密教によって呪術的加護を得て戦勝を祈念するという、役割分担的な宗教観です。また、政宗が軍神として不動明王を深く信仰していたこともよく知られています。
 今回は、その瑞巌寺の中でも、とりわけ五大堂に注目したいと思います。
 (➡瑞巌寺本堂はこちらをご参照ください。)
 五大堂は松島湾に浮かぶ小島の上に建てられており、陸地とは短い朱塗りの橋で結ばれています。この橋は「透かし橋」と呼ばれ、橋板の隙間から眼下の海面が見える構造となっており、渡る者に独特の緊張感と神聖な空間への移行を強く意識させます。
 建築は一層宝形造り、三間四方の堂で、国の重要文化財に指定されています。注目すべき点として、四方それぞれの面に三つずつ蟇股が配され、その内部に十二支が彫刻されていることが挙げられます。北面中央の「子」を起点に、丑、寅、卯と順に配され、最終的に戌、亥に至る構成で、堂宇全体が宇宙的秩序を象徴する装置となっているように感じられます。

画像の説明:瑞巌寺五大堂 南面

画像の説明:瑞巌寺五大堂 蟇股の彫刻 酉と申

 五大堂堂内には五大明王が祀られていますが、通常は非公開で、三十三年に一度の御開帳の際にのみ拝観が許されます。次回の御開帳は2039年とされています。瑞巌寺発行の『五大明王像』によれば、これらの像はいずれも一木造で内繰りを行わない、平安前期の古様な技法を用いて制作されています。中央の不動明王坐像は像高約60センチ、他の四尊は67センチから92センチに及びます。写真資料を見る限り、その像容は東寺講堂の五大明王像とよく似ており、平安時代に中央で制作された仏像が当地にもたらされた可能性が高いように思われます。
 この地には、平安時代以降、延福寺という寺院が存在していました。東北地方の多くの寺院と同様、円仁(慈覚大師)を開祖とする伝説が残されています。平安時代には、延暦寺の荘園が東国に広く展開され、それに伴って円仁派の勢力も各地に進出しました。延福寺もその流れの中で繁栄したと考えられますが、鎌倉時代以降、戦乱が続く中で次第に衰退していきました。
 伊達政宗が瑞巌寺を建立した際、この五大明王像がどのような形で伝来していたのかは明らかではありません。しかし、東寺講堂に見られるような五大明王の配置が、かつての延福寺でもなされていた可能性は十分に考えられます。現在の五大堂においても、中央に不動明王を据え、東に降三世明王、西に大威徳明王、北に金剛夜叉明王、南に軍荼利明王を配する密教的な空間構成が想定されており、政宗はこの古い密教的伝統を意識的に継承したのではないでしょうか。

画像の説明:瑞巌寺本堂と本堂南面

 


 瑞巌寺五大堂は、単なる建築や観光名所ではなく、平安期密教の遺産と戦国大名の宗教観が重なり合う、きわめて重層的な宗教空間であるといえます。

2026年01月01日

新義真言宗豊山派大本山 護国寺 総持寺

 新義真言宗豊山派は、長谷寺(奈良県桜井市)(*1)を総本山として、護国寺(東京都文京区)、総持寺(東京都足立区、西新井大師)(*2)を大本山と位置付けています。ただ、総本山、大本山という言い方は、明治以降の国家による宗派再編以降の言い方のようです。
 ここで、真言宗、真義真言宗(豊山派、智山派)の歴史と成り立ちを簡単に説明させて戴きます。

画像の説明:左又は下:長谷寺遠景 右又は上:長谷寺本尊十一面観音

 真言宗は、弘法大師空海(774–835)が開いた密教系仏教の一大宗派ですが、平安末〜鎌倉期にかけて内部で教義・学統の違いが生じました。そのなかで、特に、覚鑁(かくばん, 1095–1143)の流れをくむ学派を「新義真言宗」と呼びます。覚鑁は、密教理論と実践を体系化・刷新を行いましたが、宗派内で対立を生じ、紀伊根来(ねごろ)に拠点を移しました。根来寺は新義真言宗の総本山的存在として栄え、僧兵を擁する大勢力となりますが、1585年(天正13)秀吉の紀州征伐によって壊滅しました。




画像の説明:護国寺本堂(重要文化財)

 根来寺滅亡後、新義僧の一部は奈良の長谷寺を拠点としました。江戸幕府の宗教統制(本末制度)下で、長谷寺を本山とする「新義真言宗豊山派」(*3)として組織を確立しました。江戸期には全国に末寺を広げ、地方寺院の布教活動が活発化しました。観音信仰・修法・祈祷的色彩を多く残しており、庶民信仰とも結びついて発展しました。
 一方、根来寺滅亡後、根来寺の学統継承寺として再建した京都東山の智積院は、江戸幕府の保護を受け、学問的中心として、新義真言宗智山派(*3)の本山として発展しました。江戸周辺では、成田山新勝寺、川崎大師平間寺、高尾山薬王院等(*4)が有名です。
 江戸期には、真義真言宗豊山派は長谷寺、智山派は智積院という幕府御墨付の「本山」というブランドを駆使して、新参で大人口を擁する江戸を中心に、多くの檀家を獲得していきました。このことが、今でも、高野山を中心とした旧義系(*5)は西日本、新義系は東日本に分布している主な要因です。

画像の説明:左又は下:西新井総持寺本堂
 右又は上:護国寺境内の「音羽富士」(江戸時代の遺跡)

(*1)長谷寺(鎌倉)は、同じ十一面観音菩薩を本尊とする等、信仰の源流としてのつながりはあるものの、宗派上の所属や発展の経路が大きく異なります。
これについては、下記に記載しました。
      長谷寺(奈良県桜井市) | 毘沙門天の世界のホームページ

(*2)総持寺(横浜市鶴見区)は、曹洞宗の大本山です。「総持寺」という名称は、複数の宗派・地域で独立に用いられています。

(*3)「豊山」は長谷寺の山号「豊山(ぶざん)」に由来します。一方、智積院の山号は「五百佛山」です。「智山」は、宗派の名称です。

(*4)成田山新勝寺、川崎大師平間寺、高尾山薬王院の過去の取り扱いは下記です。
      成田不動尊(千葉県成田市)*関東三大不動尊の一つとして | 毘沙門天の世界
      川崎大師(川崎市) | 毘沙門天の世界
      高尾山薬王院(東京都八王子) | 毘沙門天の世界

(*5)「旧義」という呼称は新義側の立場から生まれた分類語です。高野山は一貫して「真言宗」もしくは「金剛峯寺派」等と名乗っておられます。

2025年12月01日

運慶祈りの空間ー興福寺北円堂


運慶 祈りの空間―興福寺北円堂
現在、東京国立博物館で開催中の特別展「運慶 祈りの空間―興福寺北円堂」では、北円堂の弥勒如来坐像、無著・世親菩薩立像に加え、かつて北円堂に安置されていた可能性の高い四天王立像が特別に展示されています。今回の展覧会の眼目は、この七軀の国宝仏が一堂に会し、鎌倉時代の北円堂内陣を奇跡的に再現している点にあります(東京国立博物館配布パンフレットより)。

画像の説明:運慶 祈りの空間―興福寺北円堂 東博正面左側ののポスターより(四角補正あり)


本展の図録に寄稿した児島大輔氏(東京国立博物館)によれば、かつて仮金堂に安置されていた四天王像は、本来、南円堂の四天王であったことが明らかになりました。これにより、仮金堂にあった四天王像は南円堂へと移され、その結果、玉突き的に南円堂の四天王像が、かつて北円堂に安置されていた運慶作の四天王である可能性が高いことが指摘されました。したがって、今回の特別展では、かつて北円堂に祀られていた運慶作の諸仏が、一堂に再び集うかたちとなりました。
これらの四天王は、現在中金堂安置ですが、今後は、北円堂に祀られることになるかもしれません。

現在の北円堂に安置されている四天王立像は、木心乾漆造による国宝であり、堂内の他の諸仏よりも古い平安時代の初期の作です。一方、運慶による四天王像は鎌倉時代の作で、寄木造を基調とし、内刳りを施すなど、技法上にも明確な時代差が見られます。
興福寺はその長い歴史の中で、度重なる戦乱に巻き込まれ、堂宇の焼失や再建を繰り返してきました。そのため、仏像がその都度、他の堂に移されることがあり、安置の際、混乱が生じたと考えられます。今回の展示は、そうした歴史的経緯を背景に、運慶の「祈りの空間」を再構成する意義深い試みといえる思います。

画像の説明:左またはした:興福寺北円堂 右または上:興福寺南円堂

なお、北円堂と南円堂は、興福寺の西端(近鉄奈良駅側)において近傍しています。両堂ともに八角円堂として優れた建築で知られますが、南円堂は江戸時代の改修によって大きく形が変わりました。ちなみに、日本では木造建築において円形の堂を構築するのは難しく、八角形の構造をもって「円堂」と称してきました。

  北円堂 南円堂
創建年 養老5年(721)
藤原不比等の一周忌に合わせ建立
弘仁4年(813)
藤原冬嗣が父・藤原内麻呂の菩提のため建立
創建者・発願 勅命下達は元明・元正天皇、長屋王に造営命令という伝承 藤原氏の追善施設として 藤原冬嗣(藤原北家)一族の追善堂として
現在の建物 鎌倉初期の再建(1208–1210頃)国宝 江戸中期の再建(1741–1789)重文
形式 八角円堂(北側) 八角円堂(南側)
/西国三十三所第9番札所
本尊・主要尊 本尊:弥勒如来坐像(国宝)/脇侍:無著・世親立像(国宝、運慶作)/
四天王像は歴史的に遷座・再配置(*)
本尊:不空羂索観音坐像(多臂)/
四天王像ほか(堂内安置は時期により移動・展示替えの経緯あり)
公開状況 年数日の特別開扉(春秋など) 毎年10月17日が年1回の特別開扉として著名
造形の印(ざっくり) 鎌倉復興期の均整・量感が明快で、意匠も引き締まる 江戸中期再建のため装飾・彩色が比較的豊かで柔らかい印象

(*)本来は大安寺のもので、延暦10年(791年)に造立されたという。

中金堂には、本来北円堂に祀られるはずの四天王像が、現在は祀られています。

画像の説明:興福寺中金堂(平成30年(2018年)再建落成)と工事中

2025年11月01日

姫路城

 姫路城は、赤松貞範が、1346年(正平元)に築城したとされますが、近世的な築城は、1600年(慶長5年)関ケ原の戦い後 52万石に封じられた池田輝政によってなされました。池田輝政は赤松貞範以来18代目の城主になります。(*1)。
昭和以降の文化財指定等のエポック:
1931年(昭和6)天守閣が国宝指定(旧国宝)
1951年(昭和26)国宝指定(文化財保護法による)
1993年(平成5)ユネスコの世界遺産

画像の説明:左又は下:姫路城正面より 右又は上:姫路城菱の門をくぐったところ(三国堀と)


 昭和以降、昭和の大修理、平成の大修理が行われていますが、国宝の名に恥じぬ様、できる限り、築城当時の姿をとどめるよう努力がなされています。(*2)
 ところで、城の石垣に、石臼や石棺が組み込まれています。当時この辺りには古代の墳墓址が残り、それを築城に使ったと考えられています。いつの時代から築城に使われているかはわかりませんが、平成の大修理に際しても、そのまま使用されています。

 私は父親から、姫路城は黒く染めた網を張り巡らせていたので、空襲の際、爆撃機から視認されず、爆撃対象とならなかったと聞かされていました。その後の研究では、空襲で焼け残ったのは偶然(天守閣近くに落ちた爆弾が不発だった等)、今となっては奇跡としか考えられないと思います。

 天守閣は、5層6階 大黒柱が東西2本、6階の床下まで貫かれています。これまでの城郭が、構造上、下部母屋部分と上部展望部分が分かれているものも多かったのですが、姫路城は、大黒柱を地階から最上階まで貫抜いています。(*3)
 よく見るとわかりますが、当城の外観では、3層より下と上層は屋根の向きが変化しています。各層が別棟のように見える「望楼型」と、外観が連続する「層塔型」の折衷ともいわれ、当時の築城思想の転換期にあたります。

画像の説明:左又は下:姫路城西の丸より 右又は上:姫路城石落しと狭間


 最近のインバウンドで海外からのお客さんも多いためか、鉄砲狭間、矢狭間、石落しの意匠等の説明が多いと思います。観光的にはそれでもよいのですが、城郭の本質として、強調しすぎるのはどうかと思います。
 姫路城の本質は、城下町全体をすっぽり覆う総曲輪(そうくるわ)です。総曲輪は、総構えとも言いますが、町全体を堀等で外部と遮断した都市の事です。日本では外敵が少ないので、総構えはあまり多くないのですが、小田原城や江戸城は有名です。
 内堀は現在の姫山公園周辺、今の国道2号線が、城のほぼ中堀、JR山陽本線が、ほぼ外堀にあたり、町全体が城内に含まれました。今歩いてみても、当寺の城域の広がりが分かります。
 三重の堀・枡形・馬出し・街道の屈曲配置が破られて、天守閣近くまで敵に侵入されたら、狭間や石落しでは戦局を打開できるものではありません。ただ、実際には、赤松則村以来、680年にわたって、姫路城が戦乱に巻き込まれたことはありません。これも奇跡と言えるでしょう。

画像の説明:左又は下:石垣に組み込まれた石棺 右又は上:埋門 天守閣正面に通じる


(*1)『姫路城史(上巻)』(橋本正次著;昭和48年刊)によると、1333年(元弘3)赤松則村(円心)が縄張りを定め、その13年後に則村の次男赤松貞範が築城したとあります。その後、小寺氏、黒田氏、羽柴氏、木下氏等が城主になりました。
(*2)城郭関連では、国宝5城(松本、犬山、彦根、姫路と2015年に重文から国宝に昇格した松江城天守)、その外、重要文化財7城が国指定を受けています。
(*3)実際には、今回の大改修に際して、見合う巨大な柱が見つからなかったため、途中で継いでいます。

2025年10月01日

九品仏浄真寺

 東京・世田谷の閑静な地にある浄真寺は、延宝六年(1678)、浄土宗の僧・珂碩上人によって開かれました。通称「九品仏(くほんぶつ)」と呼ばれるのは、阿弥陀如来の前で説かれる「九品往生」の教えに由来します。
寺の中心には三つの阿弥陀堂が一直線に並び、中央を上品堂、右を中品堂、左を下品堂と呼びます。それぞれ三体ずつの阿弥陀仏を安置し、あわせて九体が並ぶ構成は全国的にも稀有です。しかも、この呼び方には大きな特色があります。たとえば上品堂には「上品上生・上品中生・上品下生」の三尊が祀られていますが、一般には「上品上生・中品上生・下品上生」と表すのが通例です。浄真寺では、上品・中品・下品を「手の位置の違い」、上生・中生・下生を「印相の結び方」と解釈しているため、他の寺院とは呼び方が異なっているのです。ここに、九品仏浄真寺ならではの信仰上の工夫を見ることができます。


 一方で、同じく「九体仏」で知られる京都・浄瑠璃寺の場合、九体の阿弥陀如来はすべて上品上生の印相を結び、手の形の違いはありません。経典そのものにも印相の差異は説かれておらず、「九品=往生の九段階」という思想にとどまります。したがって「手の形の違い」は後世に加えられた造仏の工夫であり、とりわけ平安末期以降に広まったと考えられています。しかしそれは単なる後付けではなく、「下品下生であっても必ず救われる」という浄土信仰を、武士や庶民に分かりやすく示すための必然性を持っていました。理念的に全員を上品上生とする浄瑠璃寺に対し、九品仏浄真寺は衆生の差異を写実的に表しつつ、すべてを救う阿弥陀の誓願を際立たせているといえるでしょう。
 九体の仏像は江戸時代以来三百数十年を経て、現在大規模な修繕が進められています。2014年から順次解体修理が行われ、すでに五体の修繕を終えました。残る四体と本尊の釈迦如来はこれから修理に入る予定で、すべてが完了するのは2034年とされています。なお、現在(2025年8月)、上品堂は耐震工事のため閉ざされており、堂内の仏像を拝むことはできません。修繕と保存の営みそのものが、寺の歴史を未来へつなぐ姿ともいえるでしょう。

 さらに、この寺を語るうえで欠かせないのが「二十五菩薩来迎会(らいごうえ)」です。通称「お面かぶり」と呼ばれるこの法会は、開山・珂碩上人の臨終の際、二十五の菩薩が阿弥陀如来とともに来迎したと伝える姿を再現するものです。華やかな菩薩面をつけた人々が練り歩く光景は、上品上生の阿弥陀如来に導かれる浄土への往生を、いまに生き生きと伝えています。九品仏浄真寺は、このように伽藍や行事を通して「どのような人でも必ず救われる」という浄土信仰を体現していると思います。


画像の説明:左又は下 次回のお面かぶりの案内の看板
 右又は上:25体の菩薩が来迎し、極楽浄土に連れて行く様子をイラスト風に再現した「二十五菩薩来迎会」の様子(チャットGPTにより作成)

 

 

 

 

追記: 本ブログでは、浄瑠璃寺に関しまして2025年5月にアップしました。この際、九体仏浄真寺の「手の位置の違い」、「印相の結び方」による解釈の違い、また別に「九体仏」と「九品仏」の違いを誤解しているのではないか等の指摘を戴きました。つきまして、今回はこの点を重点的にまとめて、アップしました。
 ➜浄瑠璃寺へリンク(2025年5月)
 ➜以前の九体仏浄真寺へリンク(2018年4月)

 

追記2:
九体仏浄真寺仁王門:大仏様の軒下と木鼻の組合せは珍しい。左右に金剛力士像が安置される。楼上に阿弥陀如来と二十五菩薩像が安置されているとのことです。

2025年09月01日

寛永寺 with西郷隆盛像と徳川慶喜墓所

 寛永寺は、江戸時代初期の1625年(寛永2)、三代将軍・徳川家光の命により、僧・天海によって創建されました。山号は「東叡山」といい、これは比叡山延暦寺にならい、京都に対する宗教的・政治的な均衡を意識したものでした。寺の位置も重要で、江戸城の「鬼門」(北東)を封じるように配置され、幕府の安泰を祈願する拠点となりました。創建者である天海は、陰陽道や神仏習合の思想を背景に持ち、寛永寺の設計のみならず、江戸という都市全体の構造に深く関わったといわれています。

 寛永寺は徳川将軍家と極めて密接な関係を築いており、家光以降、六人の将軍がこの地に葬られています(*1)。上野の山には壮麗な霊廟や堂宇が整然と建ち並び、その中心には「根本中堂」がありました。かつては、現在の東京国立博物館正門付近に広大な伽藍が広がっていたと記録されています。

画像の説明:左又は下;寛永寺根本中堂 右又は上;寛永寺本坊表門

 しかし、1868年の戊辰戦争の際、上野戦争によって寛永寺は甚大な被害を受けました。彰義隊と新政府軍の戦闘により、多くの伽藍が焼失し、象徴的な存在であった根本中堂も失われました。明治時代には廃仏毀釈の影響もあり、一時は寺の勢いも衰えましたが、1879年(明治12)に川越喜多院の本地堂を移築して再建がなされ、現在の根本中堂となっています。


画像の説明:左又は下;清水観音堂
      右又は上:寛永寺五重塔

 

 それでも、焼失を免れた建築物も残っています。たとえば、1639年(寛永16)に建立された寛永寺五重塔は、現在も上野恩賜公園内にそびえ立ち、国の重要文化財(東京都管理(*2))に指定されています。また、清水観音堂(重要文化財)も創建当初の姿を今に伝えており、京都・清水寺を模した懸造りの舞台からは、不忍池を一望することができます。これらの建物が残った背景には、立地や偶然が重なったのではないでしょうか。

画像の説明:左又は下;西郷隆盛像 右又は上;徳川慶喜墓所

 西郷隆盛は、戊辰戦争で官軍を率いた人物として知られていますが、その後、明治政府の内部抗争を経て西南戦争を起こし、最終的には「朝敵」とされました。そのような人物の銅像が、東京を見下ろせる当地に、明治政府によって建てられたことは、非常に象徴的です。
 銅像の西郷は、軍服姿ではなく、犬を連れた着流し姿で表現されています。これは、西郷を一軍人としてではなく、庶民に親しまれた人物として描こうとする意図の表れといえます。かつて朝敵とされた人物をも敬い、公共の場にその姿を刻むという行為には、日本人が持つ「赦し」や「調和」の精神がよく表れていると感じられます。

 また、最後の将軍・徳川慶喜も、鳥羽伏見の戦いを経て朝敵とされましたが、のちに赦免され、現在、かつての寛永寺の一角、谷中霊園内に葬られています。その墓所は質素で控えめですが、明治新政府に順応した慶喜の姿勢が表れていると考えられます。ここにもまた、日本人が「敵味方を超えて人物を敬う」という精神が表れているといえるでしょう。
 かつて将軍の霊廟が並び立ち、戦火を受け、それでも再生を遂げた寛永寺のその歩みは、日本の近世から近代にかけての歴史の縮図であり、日本人の歴史観、宗教観、そして「赦し」と「調和」を重んじる精神が交差する場所です。

(*1)寛永寺には、4代家綱・5代綱吉・8代吉宗・10代家治・11代家斉・13代家定が埋葬されています。
(*2)現在は、上野動物園内にあります。説明書きでは、旧寛永寺五重塔と記載されていますが、現状、東京都の管理になっているため、「旧」と付けられています。
     ➡これらにつきまして、当ブログ内「増上寺と寛永寺」をご参照ください。


2025年08月01日

吉田茂邸と白洲邸(武相荘)

 神奈川県大磯町にある吉田茂邸は、昭和20年頃から吉田茂の本邸として使用され、彼が晩年を過ごした場所として知られています。戦後日本の首相として、また外交の中心人物として活躍した吉田茂は、この邸宅を拠点に数多くの政治家や外国要人と会談を重ね、日本の復興と国際社会への復帰に尽力しました。(*)

画像の説明:左又は下 :吉田邸  右又は上:吉田邸より富士山を望む


 吉田邸はもともと洋館建築で、1979年には一般公開が始まり、多くの人々が訪れるようになりました。しかし、2009年3月に原因不明の火災により焼失してしまいます。この出来事は、多くの人にとって大きな衝撃でした。
その後、大磯町を中心とした再整備の取り組みによって、2017年に「吉田茂記念館」が開館しました。記念館では、焼失前の洋館を再現するとともに、吉田茂に関する様々な資料を展示しています。彼の直筆の書翰や、戦後日本の外交史に関する貴重な資料の数々が展示されており、訪れる人々に吉田茂の思想や行動、そして戦後外交の歩みを伝えています。邸宅の裏手には、相模湾を望むように吉田茂の銅像が建てられています。

 

画像の説明:左又は下:吉田邸内部 右又は上:吉田茂邸近景

 吉田茂記念館の意義は、単なる政治家の記念施設にとどまりません。大磯という歴史的な別荘地の文化とともに、地域の魅力を伝える観光資源としても重要な存在となっています。
 吉田茂が晩年を過ごした大磯町は、明治以降、政財界の要人たちにとって特別な場所でした。東京からのアクセスもよく、温暖な気候と美しい海岸線に恵まれたこの町は、静養や思索の場として最適だったのです。
大磯には吉田茂のほかにも、過去5人の内閣総理大臣が邸宅や別荘を構えていました。伊藤博文、山縣有朋、西園寺公望、原敬、加藤高明といった顔ぶれです。これらの首相たちの存在は、大磯を単なる保養地ではなく、日本の近代政治史における重要な舞台の一つとして位置づけるものです。まさに“大磯詣で”とも言えるような政治文化が、ここには確かにありました。

 吉田茂と白洲次郎の関係は、単なる上司と部下という枠を超えた、深い信頼に基づくものだったと言われています。

画像の説明:左又は下:白洲邸(武相荘) 右又は上:白洲邸に展示されている「Paige」社製クラシックカー


 白洲次郎は戦後、吉田茂の要請を受けて政界に足を踏み入れ、主に外交・対米交渉の実務を担いました。特に注目されるのが、1945年以降の連合国軍(GHQ)との交渉や、サンフランシスコ講和条約締結に至る過程における貢献です。白洲は英語に堪能で、GHQの高官たちと対等に渡り合える数少ない存在として重用されました。
吉田茂は、白洲の率直さと行動力を高く評価しており、「口先ではなく、行動で示す人物」として絶大な信頼を寄せていました。一方で、白洲もまた、吉田の国際感覚と外交手腕に一目置きつつ、時に遠慮のない意見を述べるなど、対等に近い立場で接していたとされます。

 白洲次郎は、単なる政治の裏方というだけでなく、そのライフスタイルや美学においても一種独特の存在でした。車に対するこだわりもその一つで、彼が愛した車には、彼自身の信条や美意識が如実に表れていました。
白洲邸「武相荘(ぶあいそう)」には、かつて彼が所有していた「Paige(ペイジ)」というアメリカ製のクラシックカーが飾られています。Paigeは1920年代に製造された高級車で、当時のアメリカでも富裕層向けの車でした。白洲がこの車を愛用していたことは、彼の車へのこだわりを示しています。

(*)1967年に死去。私が小学生の際に、戦後初めての国葬が営まれました。

2025年07月01日

新薬師寺

 新薬師寺は奈良県奈良市にある寺院で、天平19年(747年)に聖武天皇の病気平癒を祈願して光明皇后が建立したと伝えられています。本尊は薬師如来坐像(国宝)で、木造の寄木造、像高約190cmの堂々たる仏像です。現在の像は鎌倉時代の作とされていますが、創建時の本尊は、時代的には木造では無かったと思います。
 新薬師寺の特徴の一つに、本尊の薬師如来坐像を取り囲む十二神将立像(国宝)の存在があります。この十二神将像は、それぞれ異なる武具を持ち、躍動感あふれる表情や姿勢が特徴的な塑像で、奈良時代(8世紀)に造られたものです。現存する最古の十二神将像であり、日本の仏教美術において極めて貴重なものとされています。新薬師寺の信仰形態は、一般的な薬師三尊形式とは異なり、薬師如来を中心に十二神将を主役とする独自のものです。薬師如来とともに祀られる脇侍の日光菩薩、月光菩薩が当初から祀られていなかったのかは不明ですが、この構成は以下の通り特徴的です。

内部は撮影不可ですので、以下にレイアウト図を作成しました。

 

 新薬師寺の須弥壇は、直径約9メートル、高さ約90センチメートルの円形で、土製の基壇に漆喰を塗り固めた構造になっています。本尊の薬師如来坐像が中央に安置され、その周囲を十二神将立像が取り囲むように配置されており、後世のように一方向からお参りする構成ではなく、周囲360度から拝観できる形式になっています。

 十二神将は中国では十二支と結び付けて信仰されることが多く、日本でも平安期以降の作品では頭上に十二支の動物を戴くものが多く見られます。しかし、新薬師寺の十二神将像にはそのような特徴はありません。十二神将の中でも、本尊に向かってすぐ右に立つ像である迷企羅(めきら)大将像(寺伝では伐折羅(ばさら)大将像)は、日本の切手のデザインに採用されたことでも知られています。この像は特に力強く迫力のある姿をしており、新薬師寺を代表する仏像の一つです。

画像の説明:新薬師寺本堂 左又は下:本堂正面 右又は上:本堂西面(現在の出入り口)

 新薬師寺の本堂(国宝)は、入母屋造、本瓦葺きで、屋根の曲線が控えめで全体的に低い形状をしています。内部に天井が無く、化粧屋根裏になっているため、この独特な低平の屋根形状が維持されていると考えられます。平面規模は桁行7間、梁間5間で、5間×3間の身舎の周囲に1間の庇をめぐらせた構成です。ただし、この庇は当初は無かった可能性が指摘されています。

 本堂の屋根の形状は、すぐ近くにある東大寺三月堂(法華堂)とよく似ています。三月堂は後世に並堂に改修されていますが、どちらの建築も奈良時代の様式を色濃く残し、屋根の曲線が抑えられ、直線的なデザインが特徴的です。天井を設けると内部に仏像を安置するために屋根が高くなりがちですが、新薬師寺の本堂は天井を設けないことで、低く抑えられた屋根形状を維持しています。参考までに東大寺三月堂画像を掲載しました。

 

 

 

 このように、新薬師寺は奈良時代の貴重な仏像や建築を今に伝えるだけでなく、独自の信仰形態を持つ寺院として、長い歴史の中で人々の信仰を集めてきました。薬師如来と十二神将を中心とした信仰や、奈良時代の建築の特徴を色濃く残した本堂など、数多くの魅力を持ち、日本の文化遺産として極めて重要な存在と思います。


2025年06月01日

浄瑠璃寺

 浄瑠璃寺(じょうるりじ)は、京都府木津川市加茂町に位置する真言律宗の古刹です。JR加茂駅よりバスを利用するのが便利です。

 この寺院は「九体寺(くたいじ)」とも呼ばれており、本堂に安置された九体の阿弥陀如来像に由来しています。本尊は、来迎印(らいごういん)を結んだ丈六坐像(じょうろくざぞう)で、高さは224㎝です。(*1)この中尊の阿弥陀如来像を中心に、左右に四体ずつ阿弥陀仏が並び、合計で九体の阿弥陀仏が安置されています。これらの仏像は、阿弥陀如来がすべての人々を分け隔てなく西方極楽浄土へ導く姿を表現しています。

画像の説明:浄瑠璃寺三重塔

画像の説明:浄瑠璃寺本堂と境内中央にある苑池

 

 浄瑠璃寺の創建は、平安時代中期の永承2年(1047年)とされています。当初は、境内中央にある苑池(*2)の東側に、薬師如来を本尊とする堂宇が建てられました。続いて嘉承3年(1108年)には、池の西側に阿弥陀如来を祀る九体阿弥陀堂が建立されました。(*3)東に薬師如来を祀り、西に阿弥陀如来を祀る構造は、苑池を現世(娑婆)と見立て、現世から極楽浄土へ至る構図を表しています。


 この構造は、自然と仏教思想が見事に融合したものであり、特に春分や秋分の彼岸には、東に位置する三重塔の背後から太陽が昇り、池を越えて西の阿弥陀堂を照らします。この現象は、現世から来世へ、此岸(しがん)から彼岸(ひがん)へと太陽が渡る象徴とされており、50年ほど前に、当寺をお参りした際に、佐伯住職からそのよう法話を戴いた記憶があります。

画像の説明:三重塔ー苑池ー本堂の位置関係(東ー西)
(現地の看板を写真に撮らせて戴きました)

 九体阿弥陀堂の様式は、かつて平安京の法性寺や奥州平泉の中尊寺、鎌倉の勝長寿院などにも祀られましたが、現存するのは浄瑠璃寺のみです。その貴重さから、本堂と三重塔、そしてそれぞれに安置される仏像(本堂の九体阿弥陀如来像および三重塔内の薬師如来像)はいずれも国宝に指定されています。なお、本堂右端の阿弥陀如来像一体のみが、2023年秋に東京国立博物館で特別公開されました。

「九体仏」という言葉に似たものとして「九品仏(くほんぶつ)」があります。これは、阿弥陀仏が衆生を救う際の姿勢や印相によって「上品」「中品」「下品」、それぞれを「上生」「中生」「下生」と組み合わせ、九つの段階を示すものです。九品仏もまた、すべての人々を極楽浄土へ導くことを意味しています。東京都世田谷区の九品仏浄真寺ではこの教義が見られます。(*4) 
<九品仏浄真寺は、こちらから>

画像の説明:上品上生~下本下生の説明画(當麻寺大曼荼羅再現画より抜粋)


このように、浄瑠璃寺は信仰・建築・自然が一体となった貴重な文化遺産であり、阿弥陀仏の慈悲を今日に伝える重要な場であると言えるでしょう。

(*1)丈六は、本来約4.85メートルの仏像を指しますが、座像の場合はその半分となります。1丈(30.3㎝)*16=485㎝。
昔の人は、坐像が立てば高さがきっと2倍になると考えたらしいです。なお、丈六より大きい仏像を大仏と言います。

(*2)中央の池の名称は、当寺で戴いたパンフレットに準じました。

(*3)創建の歴史については、異論もあります。(不明点が多々あります。)

(*4)九品仏は東急大井町線の駅名になっています。

2025年05月01日

開化天皇陵

 開化天皇陵(春日率川坂上陵)は、奈良市の三条通沿いに位置し、市街地の中にありながら良好な状態で保存されている古墳です。しかし、この陵が本当に開化天皇のものかについては疑問が残ります。
江戸時代に多くの天皇陵を治定した蒲生君平の『山陵志』(1809年)には、この陵に関する記載がありません。それにもかかわらず、明治時代になってこの地が開化天皇陵として正式に治定されました。そのプロセスについては、良く分かりません。


画像の説明:開化天皇陵

 

 

 

 

画像の説明:開化天皇陵と開化天皇陵の地理的位置(GoogleMAPより掲載)
下の写真:山の寺念仏寺(阪奈道路側)より見える開化天皇陵

開化天皇は「欠史八代」に数えられる天皇の一人であり、実在自体が疑問視されています。そのため、この陵が本当に開化天皇のものなのか、あるいはそもそも天皇陵なのかについての確証はありません。
 この陵に関する本格的な考古学調査は、宮内庁の管理下にあるため行われていません。ただし、周辺で出土した埋蔵物などから、この陵は5世紀に築かれた前方後円墳である可能性が高いとされています。5世紀といえば、「倭の五王」として知られる河内王朝の時代であり、大王級の墓が河内地方に多数築かれた時期です。したがって、この古墳も当時の権力者の墓である可能性はありますが、必ずしもその中心的な存在ではなかったと考えられます。
 平城京の造営以前、奈良盆地には多くの古墳が存在していました。しかし、平城京が建設される際、多くの古墳が破壊・削平されてしまいました。その中で、この古墳は奇跡的に残存したものの一つです。さらに、明治以降に天皇陵とされたことにより、宮内庁の管理下で手厚く保護され、都市部にありながらも良好な状態を保つことができました。


 このように、開化天皇陵とされる春日率川坂上陵は、その本来の歴史的背景が不明瞭でありながらも、考古学的には5世紀の前方後円墳としての価値を持ち、都市の中で奇跡的に保存されてきた遺跡です。歴史のロマンを感じさせる場所でありながらも、さらなる調査が待たれる陵墓の一つといえると思います。

2025年04月01日

平城京跡と近鉄電車

 平城京は710年に元明天皇によって藤原京から遷都され、日本の律令国家の中心として発展しました。奈良時代を通じて政治・文化の中心地であり、宮城(皇居)である平城宮の中には、天皇の即位や外国使節の謁見などの重要な儀式が行われる大極殿が建設されました。

画像の説明:平城京第一次大極殿(復元)


 第一次大極殿は平城京遷都とともに元明天皇によって建設されました。これは平城宮の中央北側に位置し、国家の威厳を示す象徴的な建造物でした。しかし、聖武天皇は740年に平城京を離れ、恭仁京(現在の京都府木津川市)に遷都します。この際、第一次大極殿は解体され、恭仁京へ移築されました。理由は定かではありませんが、都は、平城京➡恭仁京➡難波京➡紫香楽京と遷都を繰り返しました。(*)


 平城京へ戻った際、すでに大極殿は恭仁京へ移築されていたため、新たに大極殿を造営する必要がありました。こうして、大極殿があった場所の東側に新たに建設されたのが「第二次大極殿」です。東区にはもともと天皇が日常の政務をおこなう大安殿という建物があり、国家的な儀式をおこなう「第一次大極殿」と使い分けられていたようです。大安殿の大極殿への建て替えにより、二つの機能を統合した新しい形の大極殿が誕生したとみられています。
これにより、745年以降の平城宮では、第二次大極殿が国家儀式の中心となりました。

画像の説明:左又は下:恭仁京跡碑 右又は上:平城京大極門(南門)(復元)
 現在、平城宮跡には第一次大極殿が復元されています。この復元建物の屋根には、鴟尾(しび)と呼ばれる装飾が取り付けられています。残された地面に残る礎石の後や、柱間やその太さ等により、屋根の形等は想定可能です。大極殿に鴟尾があった事、あるいはその形等は、確かな証拠がある訳ではないと現地で説明を受けたことありますが、現在専門家の間ではある程度コンセンサスが取られて復元されています。


 現状、平城京跡の中央部分には近鉄奈良線が通っています。近鉄の立場では、これは、平城京跡の発掘調査が本格化する以前から運行されていたためやむを得ない部分があります。発掘の結果、平城京が、近鉄の線路の南側まで広がっていたことが明らかなりました。ただ、結果的に、平城京跡を近鉄が横断している図式には違いありません。そのため、近鉄は平城宮跡の保全と景観保持のため、一部高架化・地下化や移設の検討が行われたこともありましたが、いずれも巨額の費用が必要とされ、明確なブレイクスルーは提示されていません。

画像の説明:大極門(南門)よりみた朱雀門(復元)と
その手前を走る近鉄電車


(*)聖武天皇の時代に 恭仁京(740年)➡ 難波京(744年)➡ 紫香楽宮(744年) と遷都が繰り返されました。しかし、どの都も未完成のまま放棄され、最終的に745年に 再び平城京に戻る、という異例の事態となりました。

2025年03月01日

深大寺(調布市)

 深大寺は、東京都調布市にある天台宗の寺院で、関東地方で最も古い歴史を持つ寺院のひとつとされています。寺伝では、天平5年(733年)、満功上人の創建となっています。
 深大寺には、国宝に指定されている「銅造釈迦如来倚像(いぞう)」があります。この像は飛鳥時代後期(白鳳時代)を代表する作品で、日本でも非常に珍しい倚坐(座った姿)の仏像です。像高は65.8センチメートルと比較的小ぶりですが、柔和な表情と洗練された衣紋の造形美は、当時の工芸技術の高さを示しています。
当像は、明治42年(1909年)に東京帝国大学理学部人類学教室の助手であった柴田常恵氏によって発見されました。当時、柴田氏は友人と共に深大寺を訪れ、元三大師堂の須弥壇の奥に横たえられていたこの仏像を見つけました。この発見により、長らく所在が不明であった飛鳥時代後期の貴重な仏像が、再び日の目を見ることとなりました。その後、仏像は詳細に研究され、大正2年(1913年)旧国宝に指定されました。
 第2次世界大戦後、文化財保護法の制定により、いったん重要文化財とされましたが、2017年(平成29年)9月15日に国宝に指定されています。 (指定番号彫刻00133)

画像の説明:釈迦如来倚像(2014年12月撮影)(国宝指定前)
現在は、撮影禁止になっています。

 仏像の様式や技術から、この倚像は飛鳥時代後期、白鳳文化の流れを汲む作品であることが明らかになっています。法隆寺の「夢違観音立像」と同じ工房で鋳造された可能性が指摘されています(*1)。なお、当像がいつ頃当寺へ請来されたかは、定かでは有りません(*2)

 当寺の元三大師像(がんざんだいしぞう)は、深大寺が天台宗の寺院であることを象徴する重要な仏像です。元三大師は、比叡山延暦寺の18代天台座主慈恵大師良源の尊称です。元三は、良源大師が正月三日に亡くなったためそう称されました。像高約2メートル、鎌倉時代に制作されたと考えられ、肖像彫刻としては日本最大級の規模を誇ります。当像は修復が終わり、現在奈良国立博物館で特別展示中です。(*3)特別展示後は、深大寺に戻る予定です。

画像の説明:左又は下:深大寺本堂 右又は上:深大寺元三大師堂

 最後になりましたが、深大寺といえば「深大寺そば」が有名です。当地の湧き水が、美味しいことで知られ、それが蕎麦作りに適していたため、江戸時代以降、門前町で蕎麦文化が発展したそうです。現在でも地元の名物として有名です。

(*1)当像は、木蝋、蜜蝋で原型を造る鋳造技術が使用されています。蝋は柔らかいので、複雑で微妙な像形に適しています。蝋を挟んだ原型を焼くと蝋が流れ出て、予め作っておいた湯口より、銅を流し込む手法です。唯、表面からは水銀が検出されず、当寺の金銅仏の技法は、更に検証が必要とされています。

(*2)下記は、チャットGPTを使用して、収集しましたが、他の文献で確認できませんでした。
「関東地域への天台宗の布教が進む中で、この仏像が迎え入れられた可能性があります。深大寺には平安時代以降、多くの仏像や経典が請来された記録が残っており、特には信仰の広がりに伴ってこれらの請来が増加しているとされています。」
これは、東日本には、10世紀以降、天台宗寺門派円珍が開祖とされる寺院が数多く存在し、あるいは、元三大師が、10世紀後半の人であることから、10世紀後半に請来された可能性があるのではないかと考えます。

(*3)特別展示期間は、令和7年(2025)1月15日(水)~3月16日(日)。期間中、休館日もあります。

2025年02月01日

石舞台古墳(奈良県高市郡))

 石舞台古墳は、蘇我馬子の墓と言われています。これについて、明示的な資料は無いようですが、専門家の間では「蘇我馬子説」が有力です。これは、すぐ近くに邸宅跡と池をともなう庭園跡を持つ「島庄遺跡(*1)」が発掘されており、日本書紀の蘇我馬子の邸宅の記述などと矛盾を生じないことなどが根拠になっています。また、古墳の年代観より6世紀後半から7世紀前半という事で、時代的に矛盾しない事も根拠になっています。

 石舞台古墳は、墳丘が失われて石室がむき出しになっています。いつ頃から、今の姿になったのか、またいつ頃から石舞台と言われたかはわかっていませんが、巨大で平らな天井石のうえが「舞台」にみえます。

 江戸時代の絵図には、墳丘が無く、天井石が見えて「石舞台」と記載されているそうです。もっとも、蘇我入鹿が乙巳の変(*2)で倒された際に、墓が壊されたのではないかといった仮説もあります。この説では、7世紀中盤から後半頃には、既に、墳丘が無くなっていたことになります。蘇我本家が入鹿の時代に滅ぼされ、敗者の墓も暴かれたといったことでしょうが、この辺りは、想像の域をでません。

石舞台全景 右又は上:2023年6月
      左又は下:2015年7月

 昭和8年から実施された調査で次の事が明確になりました。墳丘の下部は一辺約50mの方墳で、周囲には5.9m-8.4mの空堀と外堤が巡らされています。また、この古墳が前方後円墳で無い事も明確になりました。上段が完全に失われており、方墳(二段の場合は上方下方墳)か上円下方墳かは分かっていません。

 埋葬施設は、南に開口する両袖式の横穴式石室です。石室長は約7.8m、幅約3.4m、羨道長は、約11.5m、幅約2.2m、石室内部には排水設備があり、羨道中央には排水溝が設けられています。石室の高さは、約4.7mです。

石舞台羨道 左:外➡中 右:中➡外

 この大きな石をどうやってここまで運び、どうやって天井へ上げたのかは、エジプトのピラミットや大阪城の石垣がそうであるように、やはり興味があります。これについて、現地の「特別史跡石舞台古墳」の掲示板に記載がありましたので、転載させて戴きます。


(*1)島庄遺跡(しまのしよういせき) 石舞台遺跡の西側にある島庄で、発掘調査により、方形池、石組水路、曲溝等の飛鳥時代の遺構が検出されています。

(*2)乙巳の変(いっしのへん) 乙巳の年中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我入鹿を惨殺した事件。この事件をきっかけとして、大化の改新が起った。

2025年01月01日

薬師寺東院堂

 薬師寺東院堂は、鎌倉時代の弘安8年(1285)再建です。薬師寺境内の東側、回廊の外に建ちます。寺の縁起によりますと、元明上皇の冥福を祈るために娘の吉備内親王が養老年間(720年頃)に建立した東禅院が前身です。国宝に指定されています。

画像の説明:薬師寺東院堂

 当初は南向きでしたが、享保18年(1733)に西向きに建て変えられました。薬師寺内の利便性のためだったのでしょうか。南向きでは、薬師寺金堂からは、大分遠回りになります。

 堂内で祀られた本尊の聖観音立像(国宝)は、特に有名です。像高188.9cm。蓮華座上に直立する菩薩像で、右腕は体側に垂下し、左腕は曲げ、手は肩の辺まで上げて掌を正面に向けます。

 当聖観音は、白鳳期或いは天平期の作品です。ただ、東院堂自体は、鎌倉時代の再建で、当聖観音像の中世以前の所在は明らかでなく、当初から東院堂の本尊であったとする確証はない、という指摘もあります。

当聖観音菩薩立像の模造品が東京国立博物館にあります。

薬師寺聖観音菩薩立像(模造)
本画像は、東京国立博物館提供のコンテンツです。
 「東京国立博物館提供画像加工(C-1830)」

[http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0098344]

 

 

東院堂の聖観音菩薩立像と金堂三尊像の月光菩薩は、像容が良く似ています。聖観音菩薩立像では、腰から足首にかけて裾が下方に垂れています。聖観音菩薩は、天平仏の様な胸飾り等の華やかさがある一方、飛鳥仏と同じく、正面観、全体的に左右対称な像容を持ちます。
側面観をもち左右非対称の月光菩薩より、東院堂聖観音菩薩立像は古い像容と言えます。

この様な点が、薬師寺の建立年代、藤原京、平城京の二寺併存がプロの先生方の間で議論になる一方、私は、東院堂の聖観音が、藤原京にあった薬師寺の本尊ではなかったのかと想像しています。

薬師寺は、2009年以来長く再建工事中でしたが、一通り、完成しましたので、あわせて写真掲載しておきます。

画像の説明:薬師寺 東塔と西塔

画像の説明:薬師寺金堂

2024年11月01日

室生寺(奈良県宇陀市)

室生寺は、寺のパンフレットによると「役小角(*1)が初めて建てたと伝えています」と記載されます。歴史的には、天平時代の末、興福寺の僧賢璟(けんきょう)の創建と言われています。近世には、「女人高野」と呼ばれ、女性を禁じられていた高野山に代わって女性に解放されていたことで有名でした。
(*1)役小角(えんのおづぬ)飛鳥時代の呪術者。役行者(えんのぎょうじゃ)とも呼ばれる。

画像の説明:室生寺門前太鼓橋より見た室生川

画像の説明:室生寺五重塔

当寺で最も古い建造物は、五重塔です。平安時代初期頃の建立(*2)で、総高16.1m、屋外に建つ五重塔では、国内最小(*3)です。屋根が檜皮葺で勾配が緩く、逓減率(*4)も小さいため、「女人高野」に相応しい女性ぽい姿で人気があります。
(*2)平成10年(1998)の台風により、巨木が五重塔に倒れ掛かり、半壊しました。修理の際に、当初材を年輪年代法で調査したところ、794年頃伐採された木材であることが判明し、平安時代初期の建立が裏付けされました。(*3)屋内に置かれた五重塔としては、国宝海龍王寺小塔は総高4.01m、国宝元興寺小塔は、総高5.5mです。  (*4)逓減率 塔の屋根は、上層に行くほど小さくなるが、その小さくなる割合をいいます。              

室生寺の木像十一面観音菩薩立像は、当寺で最も有名な仏像で、国宝です。像高は、196.2㎝。今は、宝物殿に安置され、拝ませて戴けます。その顔立ちは、丸顔で形の良い唇、更に花飾りの冠は、高貴な女性を思わせます。平安前期の作品です。宝物殿内は、撮影禁止です。               

 

画像の説明:左又は下 室生寺金堂 右又は上 室生寺本堂

金堂は、正面側面とも五間の単層寄棟造り、屋根は杮葺き(*5)、内陣には釈迦如来立像、右に薬師如来立像、左に文殊菩薩立像の三尊が並びます。三尊とも平安時代初期、釈迦如来立像は、国宝です。
本堂は、五間四方の入母屋造り、鎌倉時代、国宝です。真言密教の灌頂(*6)を行う堂で、別名灌頂堂と言います。
(*5)杮葺き(こけらぶき) 杮板(薄くはいた板)で屋根を葺く事
(*6)灌頂(かんじょう)密教において、法を受けるときの儀式

2024年10月02日

三渓園旧東慶寺仏殿

 東慶寺仏殿は、平成6年4月に、3年半に及ぶ保存修理工事が完了して内部が記念公開されました。今回はその際の結果に基づいています。(残念ながら内部の写真撮影は禁止されていました。)

 東慶寺は、開基は北条貞時、開山は北条時宗夫人の覚山志道尼、鎌倉尼五山のひとつとされていました。また、江戸時代には駆け込み寺として有名でした。当仏殿は、原三渓により明治40年(1907)鎌倉より三渓園へ移築されました。これは、原三渓が当寺の衰退を憂いたためだったそうです。

 当仏殿は、三間四方裳階(もこし)付、寄棟造の禅宗様建築です。屋根は、茅葺(かやぶき)、裳階の屋根は杮葺き(こけらぶき)、正面中央の桟唐戸、瓦の四半敷きの床等小さいながらも禅宗様の特徴を数々備えています。ただ、内陣の天井は、鏡天井では無く、格天井です。現在、国指定の重要文化財です。

画像の説明:旧東慶寺仏殿 全景と四半敷き

 寺伝によりますと、弘安8年(1285)北条貞時が堂塔を建立、本堂もこの時のものとされ、その後、時代が下り、寛永11年(1634)に駿河大納言(徳川忠長)の寄進によってこの堂を修補したと伝えられています。
(仏殿の建築手法上は室町建築ではないかと考えられたものの、建立年代に関しては、不明とされていました。)

 今回の保存修理工事で、建立時期に関しても詳細な調査がされました。以下は、その際配布されたパンフレット「修理工事の記録」をベースに記載させて戴きました。
・釘跡調査:「すべての部材」に「2回」釘を打った痕跡が確認されました。1回目は、創建時、2回目は、明治移築時の釘の跡と考えられました。
・質の高い材料と普通の材料が使われている。これは、駿河大納言の御殿の材料をリサイクルして使用したことが推察されます。(これらの材料は、「C14年代測定法」により年代確定に使用された旨も記載されており、時代的な矛盾はありません。)

画像の説明:左又は下:旧東慶寺桟唐戸 右又は上:旧天瑞寺寿塔覆堂

 これらにより、大掛かりの工事は過去2回だけ(江戸時代と明治時代)で、寛永11年に駿河大納言の新材を補って鎌倉で新築した建物であることが明らかになっています。

 三渓園には、その他多くの重要文化財指定の建築物が移築されています。そのなかから、2つほどを紹介されています。

画像の説明:左又は下:聴秋閣 右又は上:燈明寺三重塔


 その他、三重塔は、こちらへジャンプしてください。➡三渓園旧燈明寺三重塔へジャンプ

2024年09月01日

光前寺(長野県駒ケ根市)と高遠石工守屋貞治の石仏

 光前寺、山号は法積山(ほうしゃくさん)、長野県駒ケ根市に位置します。光前寺の御本尊は、不動明王ですが、七年に一度の御開帳です(*1)。貞観2年(860)、比叡山延暦寺円仁(*2)の弟子本聖上人の開基と伝えられています。
 以降の状況は、詳しくは分かっていませんが、16世紀には、武田と徳川、織田両家の戦乱により創建当時の寺宝の多くが失われました。そのため、建造物等の多くは、江戸時代以降の建立です。

 三重塔は、文化5年(1808)建造、杮葺き(*3)の屋根と周囲の巨木が上手くマッチして、当寺ではもっとも美しいほぼ和様の建造物です。高さは、約17.1m(5丈6尺4寸)、一般的な三重塔と比較して若干小ぶりです。三門を入りすぐ左手前方に見えますが、本堂からは少し下がった場所にあり、遠景では一寸損している様に思います。
内部は五智如来を安置します。通常は扉が閉められており、拝ませて戴くことはできません。

画像の説明:光前寺 三門と三重塔

 当寺には、霊犬早太郎伝説が残ります。古本によると、「仏薬証明」(*4)或いは「大般若経」の功徳に民間伝承を交えたものと説明があります。現在では、犬の活躍伝説は時節にあったものです。当寺には、「災難除け 霊犬早太郎お守り」等のグッズが販売されています。


画像の説明:光前寺 苔むす石垣(ヒカリゴケの生息場所)


 当寺の庭や石垣は、苔むしています。石垣の隙間には、ヒカリゴケが自生しています。添付の写真は、ヒカリゴケの自生地で、私には良く見えませんでした。(ロープで保護されていますが)

 高遠石工守屋貞治は、江戸時代中期の人で、長野県をはじめ近在には、彼の製作した石仏が数多く残ります。いずれも、材料が石にもかかわらず、出来上がりがやわらか均整のとれた出来栄えです。当光前寺にも数点彼の作品が残ります。今回の画像は、高遠建福寺に残る作品です。

画像の説明:高遠石工守屋貞治作の石仏

(*1)最近の御開帳は、最近では、令和4年4月~6月でした。特別拝観時には、三重塔の扉も、天気の良い日は開帳されて、五智如来も拝観可能です。

(*2)円仁(えんにん)は、最澄の弟子で、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。入唐八家(最澄・空海等中国に渡った僧)の一人。

(*3)杮葺き(こけらぶき) ヒノキ等の薄板で屋根を葺くこと。

(*4)仏薬証明 寺の施薬の効能を説明する縁起。

2024年08月01日

円成寺(奈良市)

 円成寺は、山号は忍辱山(にんにくせん)、柳生街道沿いに位置します。奈良時代創建の縁起を伝えますが、伝承の域を出ないものの様です。当寺を有名にしているのは、国宝の「木造大日如来坐像」です。この像は、その像容が秀逸なことはもちろんですが、残された銘により運慶作が確実なことで、その後の運慶の活躍ともあいまって、仏像史上最も貴重な作品の一つと考えられています。

 本作が運慶の作と判明したのは、大正10年(1921)に修理した際、台座蓮華の天板裏側に、運慶の名前を含む墨署銘が確認されたからです。その中には、


 -安元元年(1175)11月24日に仕事を受けて製作を開始
 -安元2年(1176)10月19日に納品
 -報酬は上品(上等な)八丈絹43疋(ひき)(*1)
 -自身(運慶)は、大仏師康慶の実子であり、弟子である
ことが、明記されています。

 これは、仏師が自身の名前(この場合は「運慶」名)をその作品に書き留めた、恐らくわが国で最初の例です。運慶の生年は不明ですが、安元年間には、20歳代だったと推定されています。(自身は未だ若いが)奈良仏師康慶の実子であり、弟子として、十分な研鑽を積んできました。(初めて直接)クライアントより十分な報酬も戴けたし、1年近くかけて納得のできる作品を完成させました、と言ったところでしょうか。

画像の説明:大日如来像は、元は、多宝塔の本尊として祀られていましたが、現在は、受付裏の相応殿に祀られています。本物は撮影禁止です。多宝塔では、ガラス越しに模刻像が祀られています。


画像の説明:左又は下: 円成寺多宝塔 右又は上:円成寺本堂

 尚、運慶の最晩年の作品は、建保4年(1216)の大威徳明王像(称名寺光明院所蔵、金沢文庫保管)と考えられています。こちらは、内刳りの像内に納入された包み紙より明らかになっています。運慶は、40年以上にわたって、一流の仏像を作成し続けました。
➡大威徳明王(ウェブ内ジャンプ)

一点像容に関して申しておきますと、当像は、この時代、最新の技術だった玉眼(*2)が使われています。以降の運慶は、玉眼を如来、菩薩等位の高い仏様には使わず、1ランク下の不動明王、毘沙門天等に限っています(*3)。運慶作で玉眼を採用した唯一の如来と考えられています。



画像の説明:左又は下:春日堂(左)と白山堂(右)(いずれも国宝) 右又は上:宇賀神本殿(重文)

 その他、当寺には、歴史的建造物が多く残ります。
 春日堂、白山堂は、13世紀の建造物で国宝です。規模は、小さいが春日造社殿の特徴を細部まで備えます(*4)。その他、楼門、本堂、宇賀神本殿は、現存の重要文化財です。

(*1)12世紀当時、30から40疋が、平安京における宅地の最小単位に相当するとのことですので、「上品八丈絹43疋」の相場観として、平安京内の小さな家1軒分の土地に相当する程度ではないでしょうか。

(*2)仏像の眼の部分に穴をあけ、その内側から裏に瞳を描いた水晶板を当てて、リアルさを表現する技法

(*3)次に運慶の歴史に残る作品は、文治2年(1186)の願成就院の諸像(1186年)となります。以降、如来、菩薩には、彫眼を使用しています。➡願成就院(ウェブ内ジャンプ)

(*4)春日造りは、一般に一間社(間は柱間のこと)です。妻入で前方にだけ、1間の庇がつきますので、入母屋の様にみえます。➡春日大社(ウェブ内ジャンプ)

2024年07月01日

千本釈迦堂(京都市)

 千本釈迦堂は、正式には大法恩寺といいます。千本釈迦堂の千本は、京都市内を南北に走る千本通りの事ですが、当寺が千本通りの近くにあるので、そう呼ばれています。千本通りは、平安時代、当時の朱雀大路でした。千本釈迦堂の位置を平安時代の地図と重ねてみると、大内裏のど真ん中に位置します。千本通り近辺には、それらのモニュメントが残ります。
 当寺は、承久2年(1220)開創以来、数々の戦乱を潜り抜けてきました。とくに、応仁の乱では、すぐ近くに、西軍の中心人物山名宗全の陣(西陣)がありましたが、当寺本堂だけは奇跡的に残りました。本堂は、京都市内では、最も古い木造建造物で国宝に指定されています。

画像の説明:千本釈迦堂本堂

 千本釈迦堂の開創は、義空という天台僧です。釈迦如来を本尊としますが、脇侍は、文殊菩薩と弥勒菩薩(*1)です。これは、義空の信仰、法華経に基づいているそうです。
 本堂は、内々陣、内陣、外陣に分かれています。外陣は、人々が礼拝する場所です。現在でも参拝者は外陣に入ることができ、内陣を拝ませて戴けます。内々陣は、暗くて良く分かりませんが、内陣中央の四天柱で取り囲まれた須弥壇には、本尊を安置する厨子があります。

画像の説明:左又は下 千本釈迦堂入り口 右又は上 千本釈迦堂本堂軒下

 奈良時代、仏様の安置する場所を金堂と言いました。金堂の場合礼拝する場所は屋外で、本堂と金堂の違いは、礼拝場所が屋内にあるのが本堂、外部にあるのが金堂と大雑把には考えて良いと思います。鎌倉時代以降金堂は無くなり、本堂が一般的になりました。また、それまでの金堂を本堂に改築する(礼拝場所を屋内に作る)試みも様々ありました。(*2)

 千本釈迦堂の場合は、開僧義空の構想に基づいて、一つの建物として創建されています。本堂(釈迦堂)は、古代建築を脱却して、中世の密教建築へ発展していく導入建築として重要です。

 外陣、内陣、内々陣は、それぞれ独立した空間で、天井はそれぞれ特徴があります。内々陣は、折上組入天井、内陣は小組格天井、外陣は半分は小組格天井、半分が、化粧屋根裏となります。(*3)周囲に化粧屋根裏の庇を巡らせつつ、大虹梁によって豪壮で格式高い大空間の礼堂をつくりだしています。外陣は、この大虹梁を掛けることにより二間分の空間を確保しています。

画像の説明:左又は下 平安宮大極殿跡
      右又は上 平安宮朝堂院跡石碑
      (いずれも千本今出川交差点近辺)

 

(*1)一般には、釈迦如来の脇侍は、文殊菩薩と普賢菩薩となります。
(*2)金堂を本堂に改築する方法
孫庇堂:庇を延ばして礼堂とする孫庇堂のケース (例) 當麻寺本堂(曼荼羅堂)
双堂(ならびどう):金堂と礼堂の間に屋根を付加して一続きとするケース (例)東大寺三月堂

画像の説明:左又は下 東大寺三月堂
      右又は上 當麻寺本堂(曼荼羅堂)

(*3)建築用語の説明
折上:壁面から直接水平にならないで、斜め又は曲面で持ち上げられて、それから水平に移る天井。
格天井:棹縁にあたる材が直交して、格子組型に組まれた天井。格間が相当広いものを言います。
棹縁(さおふち):薄い板を羽重ねに並べて、これを棹縁という細長い材で持たせた形式。
組入天井:格間が狭い、一面に一様な格子が組まれた天井。
小組格天井:格間に格子状に小組を入れた天井。

2024年06月01日

中尊寺金色堂 東博特別展時より

 中尊寺に関する特別展(2024年1月~4月)が終了しました。今回は、再度中尊寺金色堂について、アップさせて戴きました。(*1)

 中尊寺金色堂は、天治元年(1124)藤原清衡の発願、中尊寺創建当初からの唯一の建築遺構です。明治30年(1897)金色堂修理の際に見つかった棟木墨書銘には、天治元年8月20日の日付と上棟された旨が明記されています。
 当寺にとって、最大の危機は、源頼朝の奥州征伐により、奥州藤原氏が滅亡した際でしたが、吾妻鑑(文治5年9月17日の項)によると、当寺からの歎願で、源頼朝により寺領がすべて安堵されたことが記されています。

 今回の東博の展示では、現地でもなかなか拝観することのできないコンテンツが二つ含まれていました。一つは、中尊寺金色堂中の仏像の8KCGの技術を用い原寸大で再現した映像です。更に一つは、金色堂の内部を再現した模型展示です。

画像の説明:左又は下 :東博特別展のポスター
          (台形補正あり)
 右又は上:金色堂を再現した模型展示

 

 

 

 金色堂は、単層宝形造、三間四面、木瓦葺き(*2)の阿弥陀堂ですが、壇の中には藤原四代のご遺体を安置していますので、墓堂の性格も兼ね備えています。(*3)四面中、三面に須弥壇があり、それぞれの須弥壇に、阿弥陀如来を本尊、観音・勢至の二菩薩、六体の地蔵尊、持国・増長の二天を安置しています。主にヒノキ、カツラの寄木造又は一木割矧ぎ造(*4)です。全体に丸みを帯びた像容と薄く自然に羽織る仏像の袈裟は定朝様式の特徴で、都と奥州藤原氏が人的、技術的に強く結びついていたことを改めて想起させます。これらは、時代的にも、金色堂創建当時の作品と考えて間違い無いと思います。

画像の説明:金色堂を再現した模型展示

 今回の金色堂の模型展示で、気が付いたのが、「蟇股」のことです。蟇股は、柱間の割束が発展し、曲線化したものです。蟇股のなかで、中央で接合するくり抜きタイプは、平安後期のもので、醍醐寺薬師堂等に使われています。この点からも、殆どリアルタイムに都の流行が流入していたと思われます。実際の金色堂は、建物全体が、覆い堂にすっぽりと覆われていますので、軒下までは、中々目がいきません。今回の模型展示で、初めて気が付きました。


 なお、当寺金色堂は、しばしば「国宝建造物第1号」として紹介される事があります。しかし、これは、金色堂が、日本最初の国宝建造物という事では無く、同時期に指定された建造物は、数十棟あります。当HPにも、過去に
円覚寺舎利殿 、石山寺多宝塔、醍醐寺五重塔等をアップしています。

画像の説明:左又は下:金色堂覆い堂
      右又は上:文化財保護法による「国宝建造物」

 

 

 

 

 

 

 

(*1)当HPで過去扱った中尊寺関連の記事は下記のとおりです。
     中尊寺と毛越寺(岩手県平泉町)
     中尊寺(岩手県平泉町) 迦陵頻伽の華鬘

(*2)
宝形造は、四隅の棟が、屋根の中央に集まる屋根。
三間四面は、4面とも、柱が4つ並んで、柱間が3つ(三間)あること。
木瓦葺き(こがわらぶき)は、木を使用して、本瓦葺きを模したもの。

(*3)当時既に火葬が行なわれていましたので、ミイラは神秘的です。ご遺体は、昭和25年から科学的調査が行われましたが、ご遺体が腐敗せずミイラなった理由についても、自然なのか、意図的なのかについて、議論百出だったそうですが、定説は未だ無いそうです。

(*4)割矧ぎ造りは、一木を二つに割り、中刳りを施した後、再度結合させる方式です。中刳は、材木の芯を削り取り、表面が割れるのを防ぎます。この方式は、平安後期、定朝以降始まりました。

2024年05月01日

北野天満宮(京都市)

北野天満宮は、菅原道真を祀る神社です。

 菅原道真が「神」として祀られるようになった経緯は、ここでは詳細に申し述べませんが、道真が左遷先の太宰府で無念の死を遂げた後、都では干ばつや暴風が起こり、又、清涼殿へ落雷が起り、これらが道真の怨霊によるたたりと恐れられ、その怨霊を鎮めるために建立されたとされます。歴史的には、道真の左遷は、当初菅原氏と藤原氏の権力闘争の側面が大きかったと思いますが、結果的に、菅原道真を手厚く祀ったのは、当時の最高権力者の藤原氏でした。

画像の説明:北野天満宮 鳥居と楼門

 当神社の社殿は、本殿、弊殿、拝殿を直列(上から見れば□―■に見えます)につないだ形式です。本殿(□)は、神様の祀られたところ、拝殿(■)は人々が拝むところ、弊殿(間の横棒)はその間をつなぐ相の間で、拝殿や本殿よりも一段低く作られた石敷きで、桃山時代以前の古式を残しています。

 屋根は、檜皮葺の入母屋造、本殿、弊殿、拝殿をすべて組み合わせた複雑な屋根構造になっています。この様な造り方は、「石の間造」、「八棟造」と呼ばれていましたが、日光東照宮の社殿に用いられたために、やがて「権現造」と呼ばれるようになりました。

画像の説明:北野天満宮 本殿ー弊殿ー拝殿

 北野天満宮の社殿は、創建以来、何度か造り変えられましたが、現在の社殿は、1607年(慶長12年)豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行として建て替えられたものです。本殿、弊殿、拝殿を含めて、桃山建築の代表的な一棟として、国宝に指定されています。


画像の説明:左又は下 北野天満宮 本殿正面 右又は上 東京雑司ヶ谷の鬼子母神

 権現造の建造物は、全国に点在します。日光東照宮は勿論ですが、その他、仙台の大崎天満宮(国宝)、上野東照宮(重要文化財)(➡ジャンプ可)等が有名ですが、面白い所では、東京雑司ヶ谷の鬼子母神(法明寺)も権現造の本殿を持つ日蓮宗の寺院です。こちらは、東京の歴史的建造物ですが、本殿は、1664年(寛文4年)広島藩主浅野光晟の正室自昌院の寄進により建立されました。こちらも重要文化財です。

2024年04月01日

増上寺と寛永寺(&上野東照宮)

 増上寺と寛永寺は、いずれも徳川将軍家の菩提寺(*1)です。寛永寺が、江戸の町の鬼門(*2)、増上寺が裏鬼門(*2)を警固する寺院ということで、二寺が対で語られることが多いと思います。しかし、この二寺は、創建の経緯も菩提寺となった経緯もかなり違います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

画像の説明:左又は下 増上寺本堂 東京タワーと共に          右又は上 旧寛永寺五重塔

 

 

 増上寺は、伽藍構成の基本軸として本堂―三門―大門が東西方向、つまり北上する旧東海道(現在の日比谷通り)に面して設定されており、「江戸の町の裏鬼門の警固」は、創建時には想定されていないと思います。
 寛永寺は、山号を東叡山と言われるように、京都の鬼門塞ぎを意識し建立された比叡山延暦寺の影響を受けており、創建時より鬼門塞ぎが目的だったことは明らかです(*3)。同時に、京都の町を意識して、不忍池は琵琶湖、池に浮かぶ弁天は竹生島弁天、清水観音堂は清水寺が写されたと言われています。

 画像の説明:左又は上 増上寺三解脱門(本堂側より) 右又は下 寛永寺清水観音堂

 増上寺三門は、正式には、三解脱門と言います。この門をくぐると、3つの煩悩(貪り、怒り、愚かさ)から解脱できるとされます。1622(元和8)年の再建で、増上寺の初期の伽藍建築を伝えています。都内で戦災を免れた貴重な建造物で、重要文化財に指定されています。内部には釈迦三尊像が祀られているそうですが、拝観はできません。

 寛永寺の五重塔は、1639(寛永16)年の再建、九輪を含めた高さは、36.6m。都内に現存する江戸時代の五重塔は、当塔と池上本門寺(➡当ブログ内でジャンプ)の2塔のみとなっています。現在は、上野動物園内にあり、近くで仰ぎ見たい場合は、動物園の入場料が必要です。説明書きでは、旧寛永寺五重塔と記載されていますが、現状、東京都の管理になっているため、「旧」と付けられているようです。

画像の説明:上野東照宮

 上野東照宮は、1627(寛永4)年創建、寛永寺のすぐそばに鎮座します。徳川家康、吉宗、慶喜を祀ります。本殿・弊殿・拝殿(合せて1棟)及び唐門は重要文化財です。東照宮と言えば、日光東照宮や久能山東照宮等が有名ですが、上野東照宮もそれに劣らない知名度でしょう。

 

 

 

 

 

*1:菩提寺は、お墓のあるお寺のことです。
 増上寺には、2代秀忠・6代家宣・7代家継・9代家重・12代家慶・14代家茂、寛永寺には、4代家綱・5代綱吉・8代吉宗・10代家治・11代家斉・13代家定が埋葬されています。なお、初代家康、3代家光は日光、15代慶喜は神式で埋葬されています。

*2:鬼門、裏鬼門 鬼門は「北東」、裏鬼門は「南西」の方角のことで、主に、陰陽道の影響により、不吉な方向とされます。

*3:実際には、寛永寺は、江戸の北北東に当ります。選定にあたっては、方角だけではなく、比叡山に比定して、上野山等の「山」も考慮されたと考えられます。

2024年03月03日

海住山寺と恭仁京跡

 海住山寺の編集発行の『海住山寺の美術』(平成25年10月)には、自らの寺院を「海住山寺という立地にそぐわない一風変わった寺号をもつ寺院」と紹介されています。これは、加茂盆地の北の急峻な山の中腹に位置するためとの事ですが、このことを、当寺を訪問した際お寺の関係者にお聞きしたところ、当寺から加茂盆地に満ちた雲海が見えたため、そのように名付けられたのではないか、と仰っていました。
 山腹にできたわずかな平坦地には正面に本堂、左手には五重塔(国宝)、右手に文殊堂(重文)が残ります。本尊は、十一面観音立像です。

画像の説明:海住山寺五重塔  前面と後面

 五重塔は、鎌倉時代建立としては、現存唯一のものです。東が正面だそうです。塔は、本来仏舎利を安置するためのもので、塔の心礎には仏舎利が納められており、心柱は心礎から最上層の屋根まで貫いていました。当寺の場合は、心柱は初重の天井上に立ちます(*1)。この背景ですが、心柱と仏舎利の精神的重要性が低下したことが一因でしょうが、構造上心柱が必要なくなったことも大きいと思います。宋から伝来した新しい工法の「禅宗様」(*2)の影響と思いますが、屋根を四面の壁全体で受けるようになったためです。
 塔の総高は、17.7m、五重塔としては、室生寺五重塔に次いで小さいです。塔に裳階が付きますが、裳階の柱間には建具や壁を設けず、吹き放ちになっているため、党全体が、すっきりしています。
 なお、以前は麓からは狭い急峻な道を上がる必要ありましたが、消防法の観点からか、消防車が通れる道ができているとお寺の関係者に教わりました。この道は、寺域内の私道のためか、ナビには表示されませんが、通行可能となっています。

画像の説明:左又は下  海住山寺文殊堂 右又は上 恭仁京跡遠景

画像の説明:平城京第一次大極殿

 当寺の麓には、恭仁京跡が残ります。海住山寺とは、車で15分、徒歩でも1時間弱の場所です。ただ、恭仁京が営まれた奈良時代の海住山寺の実態は、有無も含めて良く分かっていません。
恭仁京は、741年(天平13年)から743年(天平15年)頃まで、都がおかれました。聖武天皇により、およそ5年間の間に、平城京➡恭仁京➡紫香楽京➡難波京➡平城京と矢継ぎ早に遷都されました。この際、平城京の大極殿が、恭仁京へ移築されたとされます。この大極殿は、恭仁京が廃された後、山背国(平安時代以降は山城国)の国分寺の金堂になりました。現在、平城京跡史跡では、恭仁京へ移築されたとされる大極殿跡に、第一次大極殿が復元されています。

(*1)五重塔初重内部には、鎌倉時代の内陣扉絵(国宝)が残ります。通常、非公開ですが、1月に五重塔内部の
    拝観日があるそうです。
(*2)禅宗様に関しては、過去には何度か取り扱いました。
    ➡http://bishamonten.info/posts/post70.html


2024年02月04日

岩船寺と当尾の石仏

 岩船寺縁起によると、当寺の創立は、奈良時代に僧行基が阿弥陀堂を建立したのが源流とされます。その後、空海の甥で弟子の智泉(*)が創建した報恩院を始まりとして、弘仁四年(813年)に堂塔伽藍が整備され、寺号も岩船寺となりました。最盛期には東西十六町、南北十六町の広大な境内に三十九の坊舎を有しましたが、承久の乱(1221年)の兵火により大半を焼失しました。

 堂内の阿弥陀如来坐像は、像高約3m、十世紀中期頃の作、ケヤキの一木造りです。また、普賢菩薩騎象像は、通常厨子内に安置されていますが、智泉(*)作と伝えられ、もとは、三重塔に納められていました。両像とも、国宝級は間違いないと思えますが、由来が良く分からないことで、重要文化財に甘んじているといったところでしょうか。

<画像の説明>左または下:岩船寺三重塔 右または上:岩船寺本堂

 三重塔は、東を正面として建ちます。岩船寺と浄瑠璃寺は一緒に語られることが多いのですが、浄瑠璃寺も同じレイアウトです。塔と本堂の間に阿字池を挟んで本堂と対峙しています。同塔は、室町時代の嘉吉二年(1442)の刻銘があることから、この頃の建立で間違い無いと思われます。内部の壁画は、鎌倉時代の遺風を残す室町時代の作とみられ、平成十五年に建立当初のものに復元されました。

 十三重塔石塔は、正和3年(1314)の建立と伝えられます。昭和十八年、軸石のくぼみの中から水晶五輪舎利塔が発見されました。同じく寺域内にある写真掲載の五輪塔(鎌倉時代)も共に重要文化財です。

<画像の説明>左又は下:岩船寺十三重塔 右又は上:岩船寺五輪塔


 ところで、岩船寺から浄瑠璃寺に至る道筋は、当尾(とおの)の石仏という多くの石造文化財が点在し、年紀を伴う鎌倉時代の石仏が貴重です。掲載の写真は、弘長2年(1262)の三尊摩崖仏(藪の中三仏摩崖像)、永仁七年(1299)阿弥陀三尊摩崖仏(わらい仏)です。いずれも良くできていると思います。

 

 

 

<画像の説明>左又は下:三尊摩崖仏(藪の中三仏摩崖像) 右又は上:阿弥陀三尊摩崖仏(わらい仏)

 当尾の石仏を見る際、知名度から先ず浄瑠璃寺へ行って、その後当尾石仏を参拝しながら岩船寺へ向かう道を考えがちですが、実は、岩船寺の標高は、浄瑠璃寺より100m位高いので、先ずは岩船寺へ参ってから、浄瑠璃寺へ参るほうが、下り道になってかなり楽と、地元の方に教わり、今回はそのルートで参らせて戴きました。

(*)智泉は、このブログでも過去何度か取り上げました。「智泉様」は、空海の甥、智泉が821年に記した「四種護摩本尊并眷属図像」のことです。四川の毘沙門天と同等の図像が残されています。
     ➡http://bishamonten.info/custom13.html

2024年01月06日

長谷寺(奈良県桜井市)

 長谷寺は、奈良県桜井市に位置します。最寄りの近鉄大阪線長谷寺駅より徒歩で30分位の所です。11月は紅葉の季節、紅葉の中に本堂が浮かんで見える素晴らしい眺めが展開されます。
 当寺の縁起によりますと、朱鳥元年(686)道明上人が天武天皇のために「銅板法華説相図」(*1)を安置したことに始まるとされます。平安時代には、源氏物語、枕草子はじめ古典文学にも長谷詣が登場します。江戸時代以降は、真言宗豊山派の総本山として、或いは、西国三十三所八番札所として著名になりました。

<画像の説明>長谷寺本堂と本尊


 本堂は、徳川幕府の造営による大規模な懸け造りの建造物です。重要な観音信仰の建造物として平成16年(2004)12月に国宝指定を受けました。本尊の十一面観音は、丈三丈三尺(10m余)と大規模です(*2)。右手に数珠と錫杖を持ち、平らな岩座の上に立つ独特な像形で、長谷型観音と呼ばれています。

 有名な登廊(のぼりろう)は、百八間、399段、上中下の三廊に分かれています。中央部分にある灯篭が印象的です。ここは、長谷寺の紹介に現れる最も有名なところと思います。
 当寺の五重塔は、昭和29年、戦後初めて建てられた五重塔だそうです。和様の整った形の塔で、今後歴史を経て、昭和の代表的な建造物となることでしょう。五重塔の傍に、三重塔跡碑が残ります。こちらは、明治9年(1876)落雷により焼失しました。三重塔の再建では無く、五重塔の新築に踏み切ったのは、お寺様の大英断と思いますが、五重塔の写真映えは、素晴らしいと思います。(写真映えだけを云々する不心得をお許しください。)

<画像の説明>長谷寺本堂の懸け造りと登廊(のぼりろう)


鎌倉長谷寺の縁起では、大和長谷寺の開山徳道上人の本願に基づき作られた二体の仏像の内一体が大和長谷寺の本尊となり、残る一体は開眼供養を修した行基により、海中へ奉じられました。その後、その尊像が、相模国に忽然と現れ、鎌倉へ遷座され鎌倉長谷寺開創の礎になったと伝えられます。

 

<画像の説明>長谷寺 五重塔 遠景と近景

 

 

 鎌倉長谷寺の本尊も大和長谷寺と同じく十一面観音像で、右手に錫杖を持ち、岩座に立つ像形です。高さは、三丈三寸(9m余)です。鎌倉長谷寺は、今は単立浄土宗系宗教法人となっています。鎌倉長谷寺が、真言宗豊山派ではない理由は、私には良く分かりません。


(*1)「銅板法華説相図」は、昭和38年7月、国宝に指定されました。現在は、奈良国立博物館に寄託されています。長谷寺では、その他「長谷寺経」が国宝に指定(昭和31年6月)されていますが、こちらも、現在は、奈良国立博物館に寄託されています。

(*2)像高が、立像の場合、丈六(4.8m)を超す像を大仏と呼びます。

2023年12月05日

安楽寺(長野県上田市)

 安楽寺は、鎌倉建長寺の開山蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)と親交のあった槽谷惟仙(しょうこくいせん)が宋から戻って開山となりました。13世紀末頃の事と考えられています。当寺の縁起には、慈覚大師円仁による創建伝説が残るそうですが、明確な記録としては、槽谷惟仙以降というのが確かなようです。

 安楽寺に残る平面八角三重塔は、国宝、木造としては日本唯一です。総高は、18.8m、軒下には上層は詰組、一層柱間にも斗供が施されていますし、軒下の横柱の端には、木鼻が装飾されています。また、最下層の窓には弓欄間が装飾されています。(➡円覚寺舎利殿(禅宗様建築)へジャンプ)

画像の説明:左又は下 安楽寺三重塔全景 右又は上 安楽寺三重塔軒下

 軒下の尾垂木は、禅宗様の特徴の扇垂木を二段に組みますが、殆ど水平です。屋根は杮葺き(こけらぶき、*)で、屋根の厚みと傾きを出しています。内部は公開されていませんが、大日如来像が安置され、禅宗様式の鏡天井が施されているそうです。

 わが国には、木造八角三重塔は、当塔のみしか残りませんが、槽谷惟仙が宋から持ち帰ったか、或いは、鎌倉に根付いていた禅宗様様式が基本にあることは間違いありません。

 中国では、八角形の塔は、今も何点か残っていますが、残念ながら木造という範疇に限れば現存しないと思います。添付写真は、現存する煉瓦(レンガ)造りの八角形の塔の例です。
    (➡河南省開封の鉄塔はこちらへジャンプしてください。)
    (➡雲南省大理崇福寺はこちらへジャンプしてください。)


 開封の鉄塔は、開封にあります。北宋時代の皇祐元年(1049年)に建造されました。レンガ造りですが、慣習的に鉄塔と呼ばれています。写真を見て戴くとおわかり戴けると思いますが、結構細部にまでこだわっていて、軒下に斗供や垂木が見えています。もちろん構造材ではありません。
開封は、北宋の首都(当時の呼び名は汴(べん))の事で、槽谷惟仙が留学したのもおそらく開封であり、開封のこの様な塔を見ながら修行に励んだのではないかと想像しています。

 安楽寺八角三重塔は、見た目では、四重に見えますが、最下層は、裳階です。これは、解体修理時の資料でも明らかですが、最下層の屋根は、壁に取り付けられており、構造材ではありません。

*
杮(こけら)葺きは、檜、槙等の薄板で屋根を葺く事です。柿(かき)とは字が違うので注意してください。
  杮(こけら) 柿(かき)

2023年11月04日

聖林寺(奈良県桜井市)

 寺伝によりますと、聖林寺は、712年(和銅5年)藤原鎌足の長子定慧が父の菩提を弔うために建立したとされます。多武峰妙楽寺の別院でした。➡多武峰妙楽寺については、当ブログの多武峰談山神社の項を参照ください。

 当寺では、十一面観音立像が特に有名ですが、本尊は本堂に祀られた、丈六(*1)の石像地蔵菩薩坐像、江戸時代の作品です。地蔵菩薩については古道脇にあるかわいらしい立像を想像する方が多いと思いますが、坐像丈六は、珍しいと思います。

<画像の説明>左又は下:聖林寺入口 右又は上:聖林寺より遠景

 十一面観音立像は明治初めに大御林寺より聖林寺に移坐されました。大御林寺は、大神神社の神宮寺のことで、明治初期の神仏分離令により、当寺からは多くの仏像が他寺へ移坐されましたが、当像もそれらの1体と考えられます。当像は、今は本堂裏手の収蔵庫に納められています。

 収納庫は、2021年に耐震工事が施されました。収納庫の工事の間に(コロナ禍の大変な時期、関係者の御苦労はいかばかりだったかと存じます)、当像は、東京国立博物館で特別展が開催されました。耐震後の展示ケースは、ケースに枠組みが無く、ガラスのみが自立しており、枠に視線を遮られる事はありません。又、このガラスケースは、高透明度、低反射のもので、映り込みも少ない高機能なものです。更に、360度(上からは見られませんが、平面的に)左右、背面までも拝観させて戴ける素晴らしい空間が達成されています。

 当像は木心乾漆像、奈良時代後期の作品とされます。当像が、奈良時代中期の天平仏と比較して写実的な人体表現等で見劣りがするという論調を見ることもありますが、当像の優美さと威厳を兼ね備えた造形は、文句なく素晴らしいと思います。

 ところで、木芯乾漆像の時代背景ですが、これについて少し紹介させて戴きます。(*2)
木材の豊富な日本では、平安時代以降は、木彫が主流になりましたが、奈良時代中期、天平仏の場合には、塑像と脱活乾漆像が造像の中心でした。脱活乾漆像は、7世紀末(白鳳時代)に日本で発明されたとされます。木材と粘土の芯の上に、漆を染み込ませた布を何重にも張り合わせていきます。脱活乾漆像の自立体は漆を染み込ませた後乾燥固形化した布です。そのため、漆と布が十分乾燥した後は、木芯と粘土を抜き去っても(脱活しても)元の形を維持できます。製作工程が複雑で短期間で完成させられない大変高価な方法でした。

<画像の説明>画像左又は下:聖林寺十一面観音立像(西陣織で作成したもの)
画像右又は上:東大寺三月堂執金剛神(東京芸大展示会より、模刻像)天平仏は、提示できる画像がありません。参考までに撮影可能だった画像を掲載させて戴きました。

 一方、木心乾漆像は、木彫をベースにした木芯の上から木屑と漆を混ぜた木屎(こくそ)を塗って更に漆で成形したものです。その自立体は木芯で、そのため、木芯を内部に残しました。木芯(*3)の基本になる木彫技術は、奈良時代後半、754年の鑑真の来日の際に同行した仏師がもたらした技法とされます。以降、日本では木彫技術が急速に発達しました。木心乾漆像は脱活乾漆像に比べ、数十年時代が下ることになります。

(*1)丈六坐像。1丈6尺のこと。30㎝*16÷2≈像高243㎝。坐像は、立像の半分と計算します。

(*2)脱活乾漆像については、過去下記にも記載しました。
    東大寺法華堂 不空羂索観音を中心に
    東大寺法華堂 不空羂索観音を中心に | 毘沙門天の世界 (bishamonten.info)
    http://bishamonten.info/posts/post31.html

(*)当十一面観音立像も、頭体は一木で、内繰りを施しているそうです。また、足は別材ですが、枘(ほぞ)で接合されているとの事です。

2023年10月01日

元善光寺と染谷不動堂(善光寺式阿弥陀如来立像)

 善光寺縁起本多善光という人が、難波の堀江(場所は不明)阿弥陀如来像を見つけて、故郷の信州まで、背負って持ち帰ったと伝説が伝わります。これは、皇極元年(642年)崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の争いの結果ということで、善光寺の縁起にある有名な話です。善光寺の名前も、本多善光の名前より由来します。

<画像の説明>元善光寺

 この縁起の真偽は別として、都から遠く離れたこの信州の地に、古代よりこの寺院が営まれたことは確かです。創建の7世紀から今日までずうっと「繁昌」し続けていることは、時代時代でお寺を経営される方々の継続的で、献身的な努力が実を結び続けているという事と思います。これは、中央の権力とも結びつかず、庶民側の立ち位置が権力者の栄枯盛衰を超越してお寺が発展し続けられたことを裏付けます。

 ここで、「繁昌」という言葉を使いました。繁昌という言い方はお寺に対して失礼ではないかと思われた方もいらっしゃるかとは思います。しかし、五木寛之の「古寺巡礼」によりますと、「繁昌」という言葉はもともとお寺について使った言葉だそうで、お寺さんに対する誉め言葉だったとの事です。今風に言えば、マーケティング力が卓越していたということでしょうか。

 善光寺の「繁昌」の根源はいくつかあると思いますが、その一つに、善光寺聖(ひじり)の存在があります。善光寺聖は、平安末期以降、善光寺の信仰を広めるべく、全国を勧進して歩きました。その結果、各地に新しい「善光寺」の名前を冠した寺院を造成、展開しました。元善光寺もそれらの寺院の一つと考えられます。
 これらの寺は、平成5年(1993年)「善光寺サミット」というイベントを開催、このイベントは今も続いています。元善光寺で入手したパンフレットは、下記の通りです。善光寺、元善光寺以外は、直接拝ませて戴いたことは残念ながらありません。

善光寺サミットに参加されている寺院のパンフレット
左上から⤵順に
元善光寺(飯田)➡甲斐善光寺(甲府)➡岐阜善光寺安乗院(岐阜市)➡
祖父江善光寺東海別院(愛知県稲沢市)➡関善光寺(岐阜市)

 

 

 善光寺の繁昌を支えた手法の一つとして、善光寺の御本尊が、「絶対秘仏」という神秘性です。御本尊は、善光寺式と言われる「一光三尊」(*1)の阿弥陀仏だそうです。「絶対秘仏」ということで、私は直接拝ませて戴いたことはありませんが、「善光寺式の阿弥陀如来」は、各地で何度か拝ませて戴いたことがあります。その中の一体が、染谷不動堂(府中市)の「染谷阿弥陀立像」です。
 染谷阿弥陀立像は、普段は公開されていませんが、年に一度東京文化財ウイークの際に公開されます(*2)。左手の人差し指と中指を伸ばす印相(刀印)が、善光寺式阿弥陀仏の特徴です。残念ながら当像は阿弥陀様単独で「一光三尊」にはなっていません。像高は50㎝弱ですが、バランスの取れた美しい阿弥陀立像です。国指定の重要文化財(彫刻)です。なお、背面には弘長元年(1261年)の刻印がありますが、これは、府中郷土森博物館の模刻像により確認可能です。新田義貞による北条氏討伐の守り本尊だったそうですが、当地は新田義貞の鎌倉攻めの際の決戦場所で、すぐ近くに、分倍河原の合戦の古戦場があります。

<画像の説明>染谷不動堂

2018年11月3日に、直接拝ませて戴きましたが、その際、偶然オーナーの方がいらっしゃいまして、詳細の説明を戴き、また、写真撮影、ネットでの紹介の許可を戴きました。

(*1)「一光三尊」は、一つの光背に阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩が並ぶお姿です。
(*2)一時期は中断されていたようですが、コロナ以前と同様に開催されるようになりました。

2023年09月01日

多武峰談山神社

 多武峰(とうのみね)談山神社は、藤原(中臣)鎌足を祭神とした神社です。中大兄皇子と鎌足が起こした乙巳の変(*1)の謀略を語り合った場所ということで、当社は談山神社と呼ばれています。
 遣唐僧として唐に渡った鎌足の長子定慧(じょうえ)が、帰国後の天武天皇7(678)年、父の墓を当地に造立、父親の舎利を埋葬し、その上に十三重塔を建立しました。以降、当寺は、妙楽寺と名付けられました。
 その後、定慧の弟、不比等が、中臣氏の伝統に基づき、神殿を造立しました。中臣氏は、仏教伝来以前より神祇・祭祀を司どり、仏教信仰にも反対した家柄だった事が、関係していると考えられています。(*2)

 談山神社という神社に、仏塔があるのだから、神仏習合の結果だろうと考える人も多いと思いますが、以上の通り、当寺の場合は、日本に神仏習合の思想が生まれる前から、両方の信仰が共存していました。明治以降、神仏分離が進んで、十三重塔を残したまま、妙楽寺という名前が消えて、談山神社という神社名が残りました。

 現在、室町時代に再建された十三重塔(重要文化財)を中心に、本殿、拝殿、権殿(いずれも重要文化財)等が、狭い山中に配置されています。木造の十三重塔は、日本唯一の仏教遺跡です。

<画像の説明>談山神社 左又は下  十三重塔 右又は上 総社拝殿

 ところで、藤原氏の氏寺としては興福寺、氏社としては春日大社が有名です。また各地に春日大社から分祀を受けた春日社が、多数所在しています。談山神社は、藤原氏の始祖藤原鎌足を祀る神社ですが、当社と春日大社の関係は、実はあまり良くなかったようで、中世には興福寺の僧兵により何度か焼き討ちにあった記録も残っているようです。

<画像の説明>談山神社 左又は下  権殿 右又は上 末社比叡神社本殿

 江戸時代、高遠藩内藤氏は、藤原鎌足を始祖としており、あわせて談山神社の信仰が厚かったようで、今も、新宿内藤町に、多武峰内藤神社が残ります。内藤氏が、春日大社の分祀では無く、多武峰神社を信仰したのは、始祖鎌足への思い入れが強かった為では無いでしょうか。

<画像の説明>左又は下  多武峰内藤神社 右又は上 高蔵寺山門

 余談ですが、千葉県木更津には、鎌足という地名が残ります。地元には、鎌足小学校といった学校名も残ります。当地高蔵寺には、鎌足信仰が今も残ります。中臣氏が、鹿島神宮の神官の出自であるとか、或いは、当寺にも、鎌足生誕伝説がのこる等は興味津々ですが、残念ながら、これらは、いずれも、伝説の域を出ない様です。

(*1)乙巳の変は、その後起った大化の改新のきっかけとなりました。
(*2)中臣鎌足が、自身の長男をなぜ遣唐僧として留学させたか、理由は不明とされています。

2023年08月01日

観心寺

 観心寺の金堂は、南北朝時代の建立、入母屋造、国宝です。建築史的には、折衷様(*1)という範疇に入ります。折衷様は、和様をベースに禅宗様、大仏様の建築様式を取り入れた建築様式で、建築史を語るうえで、重要な建造物です。

 当寺の場合、和様をベースに禅宗様が取り入れられています。和様では長押が使われるところを柱を貫く貫が使われる点、柱間の間斗束に二ツ斗が使われている等で、技術的、そして修飾性においても絶妙のバランスを醸しています。

<画像の説明>観心寺金堂

 観心寺の本尊如意輪観音像は、平安時代初期の木像乾漆像(*2)、国宝です。現在は、秘仏で毎年4月17日・18日に御開帳されています。当寺の如意輪観音坐像は六臂像(*3)ですが、六臂像の如意輪観音としては最古とされます。片膝を立てる姿勢や腕のバランスも絶妙です。不思議な魅力があります。

 当地南河内は、鎌倉時代末期から南北朝時代に、楠木正成、正行親子が活躍した土地柄です。木造建築が、戦禍に遭いやすいなかでは、当寺金堂が残った事に奇跡を感じます。また、霊宝館に残された平安時代以降の宝物(当寺の建立以来の宝物)が現在まで引き継がれていることにも奇跡を感じます。

 

<画像の説明>観心寺建掛塔と観心寺山門

 建掛塔(たてかけのとう)は、楠木正成発願した三重塔の初層が、その死去により完成に至らず、建て掛けのまま残されたという伝説を持ちます。建立は、1502年(*)ということなので、楠木正成とは100年以上の年代差があります。ここは、伝説と理解しておきましょう。

 当寺の山門外の駐車場に面して、楠木正成像が安置されます。この像は、皇居の楠木正成藏を一回り小さくした像です。皇居の像は、1891年完成、例えば顔は、高村光雲作となっています。大変良く似ていますが、左右が反対となっていますが、如何でしょうか。

<画像の説明>楠木正成像 画像左又は下 皇居像 右又は上:観心寺像

 皇居の楠木正成像は、こちらから。

(*1)古来日本には和様という建築様式がありました。鎌倉時代に入って、中国より禅宗様、大仏様と呼ばれる新  しい建築様式が輸入されました。その後、和様建築も新しい建築様式の影響を受けて、構造部分、装飾部分それ  ぞれに新しい様式が導入されました。それらを総称して折衷様と呼びます。
  過去の扱った禅宗様、大仏様は、下記を参照ください。
  (禅宗様)禅宗様建築垂木について 正福寺(東京都) 建長寺・ 円覚寺(鎌倉市)
  (大仏様)大仏寺 大仏寺(甘粛省)と東大寺大仏殿
   
(*2)木造乾漆像は、自立する木彫像に漆を塗った像で、平安時代以降盛隆しました。一方、脱活乾漆像は、簡単  な材木を布や藁で括り芯にし、漆を塗り、形を整えた像をいいます。十分乾燥させたのち芯を抜いたため‘脱活’  と呼ばれます。脱活乾漆像は、大量の漆を必要とし、また、完成までに長時間必要としたため、大変高価となり  ましたが、奈良時代に盛隆しました。

(*3)臂は、腕の事。六臂像は、腕が六つある像。

(*4)楠木正成は、1336年湊川の戦いで戦死しました。

2023年07月01日

妙心寺 特に退蔵院

 妙心寺は、臨済宗妙心寺派の大本山です。創建は、南北朝時代(1342年頃)、開基は花園上皇とされます。当初は、公家系統の寺領荘園の年貢に依っていましたが、大内義弘の乱(1399年)において、大内義弘と当寺の関係を足利義満に疑われて衰退、その後、復興に努めましたが、結局応仁の乱の兵火により、灰塵に帰したとされます。
その後、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて、豊臣・徳川配下の大名が、伽藍の造営や塔頭の開創に努め、江戸時代には、寺領491石、最盛期には83もの塔頭を擁しました。
現在寺内には、46の塔頭があり、石畳で結ばれた一つの寺町を形成しています。寺域は、嵐電北野線妙心寺駅よりJR花園駅に渡って大きく広がります。寺域全体の維持管理は、各塔頭の持ち回りで行われているそうです。

 伽藍は南北一直線上に、JR花園駅側から、勅使門・山門・仏殿・法堂(はっとう)・寝堂・大方丈・小方丈・庫裏とならび、これらは、禅宗寺院の典型的な伽藍配置となっています。いずれも、国の重要文化財に指定されています。

 

<画像の説明>妙心寺境内全景と法堂

 多くの塔頭の中、退蔵院は1404年(応永11年)建立の当寺屈指の古刹です。当院の方丈(本堂)は慶長7年(1602年)の建立(注1)で、袴腰の大玄関とともに国の重要文化財に指定されています。

 この方丈にあるとされる(注2)寺宝の「瓢鮎図(ひょうねんず)」は、我が国の水墨画の祖とされる大巧如拙の筆で、室町時代の代表作と言われる貴重な作品です。小さな瓢箪(ひょうたん)で、大きな鯰(なまず)をいかに捕えるかという公案(禅における修行のための問題)ですが、私には何の事か説明できません。

 「元信の庭」は、室町後期の画家、狩野元信(1476~1559年)が作庭した枯山水庭園です。庭の背景の常緑樹と白砂・石組みの組合せが一年中変わらぬ「不変の美」を追求したと言われています。

<画像の紹介>妙心寺 退蔵院

(注1)当院の再建は1597年です。

(注2)堂内は通常非公開です。当院のパンフレットによりますと、「瓢鮎図」(国宝・模本)との説明書きがあります。本物の国宝は、京都国立博物館に寄託(所有権は譲らず、管理を委託する事)しています。この方丈には、模本のみがあるというですが、模本も非公開の様です。

2023年06月01日

武蔵国司舘&国分寺

 現在府中市(東京都)は、奈良時代には武蔵国の国衙があり、また、その北隣に国分寺がありました。当寺、府中、国分寺一帯は、武蔵国の中心地(*1)でした。

画像の説明:左又は下 武蔵国国分寺七重塔跡 右又は上:武蔵国国司舘跡展示模型

 最近の発掘で現在の府中本町駅に隣接したエリアが、国司舘(こくしのたち)跡と判明しました。国司舘跡からは多くの建物跡が発掘され、そのなかから主殿、脇殿、付属建物の三棟が復元されました。現地の解説シートによりますと、復元模型製作は、奈良時代前半、考古学の発掘成果・建築史学等の学術的根拠に基づいたとの事です。また、木材に似た復元模型の素材には、FRP(Fiber Reinforced Plasticsの略で、繊維強化プラスティックのこと)が使用されました。
ここでは、新しい試みとして、発掘跡においてVR(バーチャルリアリティ)を使用して、当時の人々のイメージ画像を見ることができます。ここで使用するVRスコープは、紙製の手作りで、開発された担当者の御苦労を垣間見ることができます。

 国分寺は、天平13年(741年)、聖武天皇の命により、鎮護国家を祈念して、諸国に国分寺(金光明四天王護国之寺)と国分尼寺(法華滅罪之寺)の建立を命じたことにより、建立が始まりました。武蔵国においては、国衙の北側、国分寺崖(はけ)の麓、湧水の豊富な地にこれらの寺院が建立されました。国分寺の伽藍は、東大寺式が採用されていますが、なぜか、七重塔だけが中心線から大きく外れています。

画像の説明:左又は下 武蔵国国分寺「金光明四天王護国之寺」の額 右又は上 薬師如来坐像

 国分寺は、律令制の衰退とともに徐々に荒廃していき、鎌倉時代末期には、分倍河原の合戦(1333年)により、完全に焼失してしまいました。焼失後、新田義貞の寄進により復活したとされますが、室町時代以降の実態はよくわかっていません(*2)。現在の国分寺は、江戸時代徳川幕府の保護により復活しました(*3)。
 画像は、京王線分倍河原駅ロータリーにある新田義貞像です。

 国分寺の木像薬師如来坐像は、彫眼、漆箔が施された寄木造の像で、平安時代末期から鎌倉時代の作と言われています。丈六(*4)で高さ1.91m、国の重要文化財です。今は、年に一度10月10日に御開帳されます。

 

 



*1 武蔵国一ノ宮も府中市の隣町多摩市の小野神社が比定されています(異論もあります)。
*2 当地は新田義貞にまつわる事跡が多く残りますが、詳細は不明な物が多い様です。
新田義貞騎馬像が当地の分倍河原駅の駅前に設置されています。
*3 徳川家光の時代、寺領9石8斗9升8合が所領として与えられました。
*4 漢尺(1尺23-24㎝)で考えた場合、坐像では、191㎝は丈六と言えると思います。

2023年05月06日

高台院 ねねの寺

高台寺と‘ねね’の道

高台寺は「ねねの寺」と言われ有名です。本堂は、2023年2月には、工事中で菰を被っていました。写真の本堂は、2021年に訪れた際のものです。高台寺の子院圓徳寺において、「ねね(高台院)」は、晩年を過ごしました。そのため、圓徳寺は「ねね」の終焉の地とされています。


慶長十年(1605年)に、豊臣秀吉の菩提を弔うために、高台院の志に基づいて、徳川家康が、酒井忠正・土井利勝ら命じ、当寺を創建しました。はじめ曹洞宗、後に臨済宗となりました。

創建以来何度か火災に遭いましたが、創建当時の建物として、開山堂と御霊屋(おたまや)が重要文化財に指定されています。また、開山堂と庫裏を繋ぐ池上画廊は、臥竜と名付けられ、国指定・名勝に指定されています。

円山公園の南側からの石畳の通りを今は「ねねの道」と呼ばれています。平成十年(1998)から秀吉没後400年を記念して「秀吉公四百年祭」が開催された時に整備されたものだそうです。「ねねの道」の路標等の周辺は、今は、もう外国人で一杯ですが、一昨年は人が少なく、参道も人がまばらでした。掲載した参道のこの様な写真は良いシャッターチャンスに恵まれました。

 

庫裏から開山堂をみること景色は絶景です。ねねの道の道標の周辺は、今や観光客であふれています。

2023年04月01日

新選組関連旧跡

 江戸時代末に、会津藩主松平容保公が文久2年(1862年)に京都守護職に就任すると、当寺は、京都守護職会津藩の本陣となり、会津藩兵がこの金戒光明寺に駐屯しました。当寺が、本陣になった理由は下記3点です。
・当寺が、城構えを持つこと。
・御所まで約2㎞、東海道の発着地点(三条大橋)まで1.5㎞と近いこと
・4万坪の寺域を持ち、藩兵千名の軍隊が駐屯可能なこと。
 徳川幕府は、開幕直後には、京都の治安、皇居を監視する観点から、京都の整備を進めました。御所の西方には二条城、東には、当寺と知恩院を充実させる等、徳川幕府はどこまでも用意周到でした。
今、当寺には、會津藩士の墓が多く残ります。

 

古高俊太郎は、幕末の尊王攘夷志士です。彼が新選組に捕えられて、厳しい拷問の果てに様々な極秘情報が、幕府方に漏れ、それが、寺田屋事件に繋がったとされます。古高俊太郎、新選組の評価は様々ですが、ここでは、それ以上には言及しないこととします。

御陵衛士駐屯所跡は、高台寺塔頭の月真院にありました。当地は、伊東甲子太郎(かしたろう)が、新選組と袂を分かち、慶応3年(1867年)3月、同士14名を引き連れ、ここを駐屯所としました。しかし、新選組との対立は深く、伊東は新選組に謀殺され、活動は終焉しました。

2023年03月21日

六波羅蜜寺


 六波羅蜜寺は、市聖(いちのひじり)と呼ばれる空也の「空也上人像」が有名です。「空也上人像」は、口から南無阿弥陀仏がほとばしる、13世紀始めの肖像彫刻です。少し足を曲げて歩きながら、町を回り布教をしている姿です。像内の墨書き名から運慶の四男康勝の作とされています。

 空也は、平安地代、10世紀の人ですが、像に比べるとその行跡は良くわかっていません。社会が混乱する中、南無阿弥陀仏を唱えながら、遊行した姿が想像されます。後の、浄土宗を起こした法然の活動に繋がったことは間違いありません。

 像は、当寺院内の令和館に安置されており、撮影禁止です。昨年令和館が開設されるまでの間、東京国立博物館で間近に拝ませて戴けました。その際も、勿論撮影禁止でしたが、当館の場外に大きく表示されたポスターのアップを掲載させて戴きます。

 蛇足ですが、当像を京都から東京国立博物館に運搬された日本通運の担当者の方のインタビュー記事を見たことありますが、口から出た阿弥陀仏が取り外せない、曲がった足のため、立てたまま運搬した等、苦労の連続だったそうです。

六波羅蜜寺は、寺名と通り、六波羅に位置します。寺内には、平氏六波羅第と六波羅探題府の路標(時代は良くわからないと思います)が、残ります。

 

2023年03月21日

ブログ再開しました

「毘沙門天の世界」は、仏教美術を中心に、歴史的な文化財のそのうんちくを語るWEBサイトです。ブログ/毘沙門天の世界は、2023年以降のブログを更新するためのサブドメインです。「毘沙門天の世界」の本編(兜跋毘沙門天を中心とした毘沙門天の歴史)と2022年以前のブログは、下記URL「毘沙門天の世界」でご覧いただけます。

➡bishamonten.info

 

 

2023年03月19日