武蔵国司舘&国分寺

 現在府中市(東京都)は、奈良時代には武蔵国の国衙があり、また、その北隣に国分寺がありました。当寺、府中、国分寺一帯は、武蔵国の中心地(*1)でした。

画像の説明:左又は下 武蔵国国分寺七重塔跡 右又は上:武蔵国国司舘跡展示模型

 最近の発掘で現在の府中本町駅に隣接したエリアが、国司舘(こくしのたち)跡と判明しました。国司舘跡からは多くの建物跡が発掘され、そのなかから主殿、脇殿、付属建物の三棟が復元されました。現地の解説シートによりますと、復元模型製作は、奈良時代前半、考古学の発掘成果・建築史学等の学術的根拠に基づいたとの事です。また、木材に似た復元模型の素材には、FRP(Fiber Reinforced Plasticsの略で、繊維強化プラスティックのこと)が使用されました。
ここでは、新しい試みとして、発掘跡においてVR(バーチャルリアリティ)を使用して、当時の人々のイメージ画像を見ることができます。ここで使用するVRスコープは、紙製の手作りで、開発された担当者の御苦労を垣間見ることができます。

 国分寺は、天平13年(741年)、聖武天皇の命により、鎮護国家を祈念して、諸国に国分寺(金光明四天王護国之寺)と国分尼寺(法華滅罪之寺)の建立を命じたことにより、建立が始まりました。武蔵国においては、国衙の北側、国分寺崖(はけ)の麓、湧水の豊富な地にこれらの寺院が建立されました。国分寺の伽藍は、東大寺式が採用されていますが、なぜか、七重塔だけが中心線から大きく外れています。

画像の説明:左又は下 武蔵国国分寺「金光明四天王護国之寺」の額 右又は上 薬師如来坐像

 国分寺は、律令制の衰退とともに徐々に荒廃していき、鎌倉時代末期には、分倍河原の合戦(1333年)により、完全に焼失してしまいました。焼失後、新田義貞の寄進により復活したとされますが、室町時代以降の実態はよくわかっていません(*2)。現在の国分寺は、江戸時代徳川幕府の保護により復活しました(*3)。
 画像は、京王線分倍河原駅ロータリーにある新田義貞像です。

 国分寺の木像薬師如来坐像は、彫眼、漆箔が施された寄木造の像で、平安時代末期から鎌倉時代の作と言われています。丈六(*4)で高さ1.91m、国の重要文化財です。今は、年に一度10月10日に御開帳されます。

 

 



*1 武蔵国一ノ宮も府中市の隣町多摩市の小野神社が比定されています(異論もあります)。
*2 当地は新田義貞にまつわる事跡が多く残りますが、詳細は不明な物が多い様です。
新田義貞騎馬像が当地の分倍河原駅の駅前に設置されています。
*3 徳川家光の時代、寺領9石8斗9升8合が所領として与えられました。
*4 漢尺(1尺23-24㎝)で考えた場合、坐像では、191㎝は丈六と言えると思います。

2023年05月06日