新選組関連旧跡
江戸時代末に、会津藩主松平容保公が文久2年(1862年)に京都守護職に就任すると、当寺は、京都守護職会津藩の本陣となり、会津藩兵がこの金戒光明寺に駐屯しました。当寺が、本陣になった理由は下記3点です。
・当寺が、城構えを持つこと。
・御所まで約2㎞、東海道の発着地点(三条大橋)まで1.5㎞と近いこと
・4万坪の寺域を持ち、藩兵千名の軍隊が駐屯可能なこと。
徳川幕府は、開幕直後には、京都の治安、皇居を監視する観点から、京都の整備を進めました。御所の西方には二条城、東には、当寺と知恩院を充実させる等、徳川幕府はどこまでも用意周到でした。
今、当寺には、會津藩士の墓が多く残ります。
古高俊太郎は、幕末の尊王攘夷志士です。彼が新選組に捕えられて、厳しい拷問の果てに様々な極秘情報が、幕府方に漏れ、それが、寺田屋事件に繋がったとされます。古高俊太郎、新選組の評価は様々ですが、ここでは、それ以上には言及しないこととします。
御陵衛士駐屯所跡は、高台寺塔頭の月真院にありました。当地は、伊東甲子太郎(かしたろう)が、新選組と袂を分かち、慶応3年(1867年)3月、同士14名を引き連れ、ここを駐屯所としました。しかし、新選組との対立は深く、伊東は新選組に謀殺され、活動は終焉しました。

