黄檗宗萬福寺と曹洞宗總持寺
江戸初期の1661年(寛文元年)、明末の高僧・隠元隆琦が来日し、日本に黄檗宗を伝えました。その中心寺院が宇治に建立された萬福寺です。萬福寺の創建は、徳川家綱をはじめとする幕府の手厚い保護と、大坂の有力商人らの莫大な寄進によって支えられました。寺領四百石、境内九万坪、諸役免除という待遇は、単なる宗教的評価だけでは説明できません。
幕府が萬福寺を保護した理由は、宗教的必要性というよりも、政治・外交・統治上の判断にありました。江戸初期の幕府は、戦国期の一向一揆の記憶や、本山—末寺を貫く強固な宗派ネットワーク、さらにキリスト教への警戒などから、既存宗教に対して一定の距離を保っていました。一方で、中国文明の権威は取り込みたいという思惑もありました。しかし満州族の清王朝との政治的接触は避けたいという、きわめて微妙な立場にありました。黄檗宗は、その要請に応える存在でした。すなわち、「漢(明)文明」の宗教的・文化的要素だけを切り出して受容できる装置として機能したのです。
画像の説明:左又は下:萬福寺三門 右又は上:萬福寺法堂(国宝)
隠元は、すでに滅亡した明を背景とする亡命僧であり、日本国内に血縁・地縁もなく、門徒組織も武装経験も持っていませんでした。そのため黄檗宗は幕府に完全依存する形で成立し、他宗との軋轢を避けながら、非大衆路線・非拡大路線を維持しました。その結果、萬福寺は宗派拡張の拠点というより、明代中国の宗教・建築・生活文化をほぼ丸ごと移植した文化空間として今日まで存続しています。
伽藍は強い中軸線を持ち、天王殿から大雄宝殿、法堂へと一直線に並ぶ左右対称の構造をとっています。屋根や斗栱、扉意匠に至るまで明代様式が徹底され、日本の他の禅寺とは異なる独特の秩序を今に伝えています。門前に観光土産店が並ぶわけでもなく、観光客もそれほど多くありません。萬福寺は静寂のうちに文化資産として持続する寺院です。
画像の説明:萬福寺大雄寶殿(国宝)(*1)
日本に伝わった禅宗は、臨済宗・曹洞宗・黄檗宗の三派に分かれますが、それぞれ異なる方法で社会に根を下ろしました。臨済宗は京都・鎌倉の五山を中心に、貴族や高級武士層と結びついて発展しました。五山文学に代表される漢詩文化は非常に洗練され、中国僧と区別がつかないほどであったともいわれています。(*2)
曹洞宗はこれとは対照的に、東日本を中心に村落へ浸透し、檀家制度を基盤とする地道な活動によって広がりました。越前の永平寺と能登の総持寺を両輪として発展しましたが、明治三十一年の大火を契機に総本山の一つを神奈川県鶴見へ移し、現在の總持寺を整備しました。都市近郊へ拠点を置くことで、教育機関の設置や地域行事の開催など、近代的な宗門運営を展開しています。豆まきの様な行事を通じて地域社会との結びつきを深めつつも、観光寺院化することなく落ち着いた空間を保っています。
画像の説明:左又は下:總持寺大祖堂 右又は上:總持寺三門
萬福寺が「外から移植された文明空間」であるのに対し、總持寺は「社会の内部に根を広げた生活宗教の拠点」といえます。同じ禅宗でありながら、その成立背景や支援構造、社会との関わり方は大きく異なります。禅三派の歩みは、日本社会が宗教をどのように受容し、再構成してきたかを示す一つの縮図であるといえます。
(*1)萬福寺大雄寶殿には日本で唯最大のチーク材を使用しています。(現地で戴いたパンフレットより)
(*2)臨済宗関連は、何度か扱っています。
円覚寺 http://bishamonten.info/posts/post82.html
浄明寺 http://bishamonten.info/posts/post90.html