元善光寺と染谷不動堂(善光寺式阿弥陀如来立像)
善光寺縁起本多善光という人が、難波の堀江(場所は不明)阿弥陀如来像を見つけて、故郷の信州まで、背負って持ち帰ったと伝説が伝わります。これは、皇極元年(642年)崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の争いの結果ということで、善光寺の縁起にある有名な話です。善光寺の名前も、本多善光の名前より由来します。
<画像の説明>元善光寺
この縁起の真偽は別として、都から遠く離れたこの信州の地に、古代よりこの寺院が営まれたことは確かです。創建の7世紀から今日までずうっと「繁昌」し続けていることは、時代時代でお寺を経営される方々の継続的で、献身的な努力が実を結び続けているという事と思います。これは、中央の権力とも結びつかず、庶民側の立ち位置が権力者の栄枯盛衰を超越してお寺が発展し続けられたことを裏付けます。
ここで、「繁昌」という言葉を使いました。繁昌という言い方はお寺に対して失礼ではないかと思われた方もいらっしゃるかとは思います。しかし、五木寛之の「古寺巡礼」によりますと、「繁昌」という言葉はもともとお寺について使った言葉だそうで、お寺さんに対する誉め言葉だったとの事です。今風に言えば、マーケティング力が卓越していたということでしょうか。
善光寺の「繁昌」の根源はいくつかあると思いますが、その一つに、善光寺聖(ひじり)の存在があります。善光寺聖は、平安末期以降、善光寺の信仰を広めるべく、全国を勧進して歩きました。その結果、各地に新しい「善光寺」の名前を冠した寺院を造成、展開しました。元善光寺もそれらの寺院の一つと考えられます。
これらの寺は、平成5年(1993年)「善光寺サミット」というイベントを開催、このイベントは今も続いています。元善光寺で入手したパンフレットは、下記の通りです。善光寺、元善光寺以外は、直接拝ませて戴いたことは残念ながらありません。
善光寺サミットに参加されている寺院のパンフレット
左上から⤵順に
元善光寺(飯田)➡甲斐善光寺(甲府)➡岐阜善光寺安乗院(岐阜市)➡
祖父江善光寺東海別院(愛知県稲沢市)➡関善光寺(岐阜市)
善光寺の繁昌を支えた手法の一つとして、善光寺の御本尊が、「絶対秘仏」という神秘性です。御本尊は、善光寺式と言われる「一光三尊」(*1)の阿弥陀仏だそうです。「絶対秘仏」ということで、私は直接拝ませて戴いたことはありませんが、「善光寺式の阿弥陀如来」は、各地で何度か拝ませて戴いたことがあります。その中の一体が、染谷不動堂(府中市)の「染谷阿弥陀立像」です。
染谷阿弥陀立像は、普段は公開されていませんが、年に一度東京文化財ウイークの際に公開されます(*2)。左手の人差し指と中指を伸ばす印相(刀印)が、善光寺式阿弥陀仏の特徴です。残念ながら当像は阿弥陀様単独で「一光三尊」にはなっていません。像高は50㎝弱ですが、バランスの取れた美しい阿弥陀立像です。国指定の重要文化財(彫刻)です。なお、背面には弘長元年(1261年)の刻印がありますが、これは、府中郷土森博物館の模刻像により確認可能です。新田義貞による北条氏討伐の守り本尊だったそうですが、当地は新田義貞の鎌倉攻めの際の決戦場所で、すぐ近くに、分倍河原の合戦の古戦場があります。
<画像の説明>染谷不動堂
2018年11月3日に、直接拝ませて戴きましたが、その際、偶然オーナーの方がいらっしゃいまして、詳細の説明を戴き、また、写真撮影、ネットでの紹介の許可を戴きました。
(*1)「一光三尊」は、一つの光背に阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩が並ぶお姿です。
(*2)一時期は中断されていたようですが、コロナ以前と同様に開催されるようになりました。